思考の物置

子どもたちがホントに興味のあること


 子どもたちは、今現在切実に自分達に関係のあること、例えば「北朝鮮はミサイルを撃ってくるんですか」「日本はこれからダメになるんですか」「日本をこんなに悪くしたのは誰の責任なんですか」「これからはどんな職業だったら生きていけそうですか」「大学に入るのはそんなに意味のあることですか」……というような問いには、本当に興味を示す。逆に言えば、それとは関係のない学校のカリキュラムに、それほど熱心に興味を示すわけではない。それは言うなれば当たり前のことだ。

 しかし学校というのは、こういう問いに答えを示したり、あるいは情報を集めたり、試行錯誤するための場所になれていない。子どもたちの興味・関心、および実利とおおよそかけ離れたところに学校はいる。

 本来的な学校においては、これらの興味・関心をぐんぐん伸ばしていくために時間と労力がかけられるべきだろう。いや、実は現状の学校だって、こういうことに「時間と手間をかけよ」とは言っているのである。しかし、非常に残念なことにそれは「タテマエ」にとどまってしまっている。学校システムという枠から外れるだけの勇気をもたないならば、大学受験や高校受験のために、カリキュラムをこなすことは絶対に避けられない。そしてそのためには、興味・関心はあとまわしにされざるを得ない。

 「大学受験のあり方が学校をしばっており、大学受験のあり方を変えるだけで教育システムに激変が起こる」というのは、確かにその通りなのであろう。しかし現状、文部科学省は大学に対してそれほどの力を行使できないため、大学を変えずに小・中・高を変えようとしているわけだが、その矛盾(出口を変えずに中身を変えようとすること)が、改革を「タテマエ」に堕落させているし、その矛盾をなんとかしようとすることが「やらせ」を生み出すということにつながっている(もちろん、素晴らしい実践をやっているところもあることとは思うが。しかしそれとてもやはり一部のカリキュラムを削ることによってでなければできないのではないかと私は思うのだが、どうなのだろう)。

 「学校システムという枠から外れるだけの勇気をもたないならば」と書いたが、私は、学校システムという枠から外れてしまった方がいいと思う。外れてしまった方が実は、実利が多くなるという現実を示し、示し、示し、提示していくことによって、現状の学校システムに風穴をあけることができるのではないか(民度をあげることができるのではないか)ということだ。宮台真司のように、権力者へのチャンネルを持たない以上は。