これから自分のウェブサイトの中で、自分の考えを書き、検証していきたいと思っているのですが、その際にぜひ、反論・意見を色々な人から得たいと思っています。
と、いうのは、私は自分の考え方がどれだけ妥当性を持っているのか知りたいですし、また、妥当でない部分についてはどんどん訂正していって、より悪くない認知に近づきたいと思っているわけですが、そのためには、人から間違いを指摘してもらうことが非常に有効な手段であるからです(楽をしようとか、そういうワケでは………………。いや、えーっと(^_^;)。
そういうわけで、ここを見られた方(非常にまれだとは思いますが……)から、私の意見に賛成が得られればそれはもちろん嬉しいですが、それ以上に、「ここはおかしいのではないか」という指摘が得られれば、そちらの方が実はより有益だと思っているのです。
ただ、ここが肝心な点ですが、「反論」といっても、ひたすら反論されることを望んでいるわけではありません。目的は、反論をもらうことではなく、間違いを訂正してより悪くない見識に近づくことなのですから、反論を見て、なるほどと思って私が意見を改めることもあれば、反論を見て、いやその反論についてはさらにこういう反論が成り立つのではないか、と逆にツッこむこともあるでしょう。そしてその対話のやりとりの中から、建設的に、さらなる知識を得ていこうという事なわけです。
こういう、「自分の考えには絶対に間違いが含まれているハズである」「だから、人から間違いを指摘してもらえる事は、本当に喜ぶべき事である」という考え方は、古代ギリシアのソクラテス(→伝記ソクラテスへ)に発し、「現代のソクラテス」と言われたオーストリア生まれのイギリスの哲学者カール・R・ポパー(1902〜94)の昇華した考え方に沿ったものです。ポパーについては詳しく紹介していきたいのですが、なかなか書けないので、とりあえず、ポパーの(真理に近づく為の)12原則を以下に挙げておきます。
1.われわれの客観的な推測知は、いつでも一人の人間が習得できるところをはるかに越えでている。それゆえ、いかなる権威も存在しない。このことは、専門領域の内部においてもあてはまる。
2.すべての誤りを避けることは、あるいはそれ自体として回避可能ないっさいの誤りを避けることは、不可能である。誤りは、あらゆる科学者によってたえず犯されている。誤りは避けることができ、したがって避ける事が義務であるという古い理念は修正されねばならない。この理念自体が誤っている。
3.もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そしてなんぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。直感によって導かれる創造的な科学者にとっても、それはうまくいくわけではない。直感はわれわれを誤った方向に導くこともある。
4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。それゆえ、そうした誤りを探求することが科学者の特殊な課題となる。よく確証された理論、あるいはよく利用されてきた実際的な手続きのうちにも誤りがあるという観察は、重要な発見である。
5.それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは、ここにおいてである。なぜなら、古い職業倫理の態度は、われわれの誤りをもみ消し、隠蔽し、できるだけ速やかに忘却させるものであるからである。
6.新しい原則は、学ぶためには、また、可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれはまさにみずからの誤りから学ばなければならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見いだしたなら、それを心に刻まなければならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
9.われわれは、誤りから学ばなければならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、感謝の念をもって受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。またわれわれは、最大級の科学者でさえ誤りを犯したことを思い出すべきである。もちろん、わたくしは、われわれの誤りは通常は許されると言っているのではない。われわれは気をゆるめてはならないということである。しかし、くりかえし誤りを犯すことは人間には避けがたい。
10.誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた、寛容につうじる。
11.われわれは、自己批判こそが最良の批判であること、しかし他者による批判が必要なことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは、客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。
−ポパー『よりよき世界を求めて』(未来社)P319
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