思考の物置

「やらせ」に対する批判


 「テーマ募集」「スローガン募集」「名称募集」「この施設へ来て学習してみませんか」「人権作文」「読書感想文」などなど……。学校には、子ども達が別にしたくもないのに、大人がさせたい「教育的」な活動に満ち満ちている。これらの募集が来るたびに子ども達は言っている。「えーっ。そんなのやりたくないよ」。しかし、教師は上から降ってきたことであるし、やらせざるを得ない。いや、多くの教師は「そういうことをやらせることが、より良い教育につながる」と思っているのだろう(そういうふうに「これは良いことなのだ」と内面化しない限り、教師などやってられまい)。そして強制、よくて「主体的」の名を借りた「やらせ」がそこで展開される。

 それ自体も大きな問題だが、それに輪をかけてがっかりさせられるのが、そのようなほとんど無意味な活動に対して、公的機関が少なくないであろう予算を投じているということだ。

 ポスター、募集用紙、会誌、パンフレット、配布用のペンや下敷きなど……。実用に役立つものでない限り、それらはまさに「どうでもいいもの」の筆頭である。子ども達はそれらの配布物にうんざりしている(私が学生だった頃には、こういうものがそれほど多かったと思わないのだが……。どんどんこういうものは増えていたりするのだろうか?)。実用に役立つものでさえ、そこに印刷されているスローガンなどは、どれほど意味のあることか。「お互いを大切にしよう」というスローガンに関わるキャンペーンのために強制ややらせをさせられるよりも、その時間を子どもとのコミュニケーションの時間にさせてもらった方が、よっぽど現場のためになるのに。

 だが公的機関は、仕事をやりたいし、予算を使いたいのだろう。そして、彼らにとっての実利にもなり、「ああ、よいことをした」との満足にひたるのだ。

 しかしちょっと待て。本当に教育において望まれることは、子どもが主体的になにかを切り開いていくことではないのか。これらの「やらせ」は、確実に子ども達の主体性を失わせ、時間を失わせ、学校教育を期待させないものにしている。

 私はそもそも公的機関が「こうしましょう」「これやりましょう」と呼びかけることをやるべきではないと思っている。そういうことは、NPOに任せるべきであり、もし公的機関がなにかするなら、NPOの審査や予算配分にまわすべきなのだ。そして公的機関は自らの仕事の縮小をもって喜ぶべきなのである(ムリなことではあるが)。

 逆に言えば、日本では公的機関がありとあらゆることを率先してやることによって、国民のやる気をそぎ、モラルハザードを招来しているのである。(しかし、そこに利権があるから、そうするに決まっている)






 例えば郷土に関する学習。生徒が主体的に取り組めるようにといいつつ、郷土というテーマを持ってくるが、生徒はホントは関心などないのである(まったく持たせられない、ということはなくて、うまくやれば興味関心をひけるだろうが、「結構、やってみたら面白かった」、それが、本当の意味で主体的なものだろうか?)。

 むしろ、生徒が好きで好きでたまらないものを学習のテーマに選ぶことができればいいのに、そういう風にするのはまれで、たいてい何がしか大人側の「やらせ」がついてまわる。

 ああ、またやらせ、やらせ、である。「今の大人がさせたい」ことで、「今の子どもがやりたい」ことなど、ほとんど何もないのではないだろうか?


 「成熟化社会」では、何が価値あることなのか、わからない。価値あることは人それぞれということになる、という。そしてその「人それぞれの価値」を探す(ことができるようになる)ために、総合的な学習の時間が設立されたという経緯がある程度あると思われる。しかし、結局のところ総合的な学習の時間は、「大人が価値あると思わせたいものを子どもに無理矢理やらせつつ、子どもは喜んでそれをやっている」という強制的志願状態を裏打ちさせるためのものになってしまっている。

 地域、郷土の歴史、伝統文化、日本楽器、エトセトラ……。これらのノスタルジーを強制するための場所が、総合的な学習の時間と化しているのだ。なるほど、世の中には三味線に興味を持つ若者などが増えたりしているのも確かだ。しかしそれをうまいこと「(その人にとって)濃密な時間」となるように提供するならともかく、いやだが、やらせられるからしょうがない、という時間にさせているのだ。




 「やらせ」の存在にはうんざりさせられた。読書感想文や人権作文、絵、スローガン、名前募集、施設見学などなど。新聞などで「こんな面白い授業が!」という記事を見るが、「ああ、これもやらせなんだろうな」とほとんど信用できなくなる。


 「郷土重視」というのは、大人側の願望に過ぎない。子どもたちが、他のものをうっちゃってまでも郷土のことをやりたいと思っているかと言えば、そんなことはまずあるまい。しかし、そんなことよりも、大人側の願望が優先される。すなわちそれによって、子どもの願いは、ここでも無視されるということになる。


 「ゲーム脳」に対するお手玉推奨(野山かけまわり推奨も同じだが)のように、学校現場でも「古き良きノスタルジー」への懐古が、頭の古い人間によって必死に繰り広げられているといっていいだろう。



 そしてまた、時間的制約。私自身の経験からいっても、「自ら課題を決め、自ら学び、自ら判断する」というのは、限られた時間の中でやるようなものではない。むしろ、いつでもフト気付いた時にはそのことを考えてしまう、というような中で、時々思い返したようにそれをやり、少しずつ進歩していくのである。

 「学び方を学ぶ」とも言うが、「はい、こうやって学ぶんですよ〜」という教わり方で、これからの世の中を覆すような人材を本当に作れるのだろうか?

 むしろ、「個性を尊重する教育」と「タガにあまりはめない教育」という方向性を大事にし、ちょっと変わった考え方をする子がいても、その子の良い点を伸ばしていくような教育に、ということを重点的に考えていった方が良いのではないかという気がする。