思考の物置

「意味のない提出物」への批判


 「学習の記録」「学級日誌」。これらにどれほどの意味があるのであろうか?

 連絡事項や明日の時間割などを記録しておく必然性はあるだろう。また、その日の反省も、できたらいいのはいいだろう。その日の感想や意見を、教師に伝えることは意味のあることではあろう。しかしこれらの記入を強制すること。それはどうなのであろうか?

 反省を毎日する……それが普通の人間のあり方だろうか? 時に強烈な反省を感じることはあろう。しかし、毎日反省を強要されたら、「反省(を書く)」ということを単なる作業として行うことになるにほとんど決まっているのではないか。

 子どもは毎日苦しんでいる。「何も書くことがないよ〜」。ああ、それが普通だろう。毎日毎日、「ああ、私はこんな反省点があったよ!」と心の底から思っている子どもがいたら不気味である。「学習の記録」は、そういう子どもを大人に要求させる。結局、なにかの形の体裁を整えれば、何かをやった気になるからやるという大人側の自己満足に過ぎないのではないのか? あるいはまた、「学習の記録」とかいうものを作る出版社は、それによって利益を得るのであるが、本当に子どもがそれを使うことによって成長するとか、生き生きするとか考えながら作っているのであろうか?

 感想や意見。これは、教師とのコミュニケーションにおいて大切なことだと思う。しかし、そんなことは口頭の相互コミュニケーションでやればよいではないか?(クラスの人数が多くて、それが充分にできないという場合はまた別だ。私の担任したクラスの場合、生徒が3人しかいなかったからそう思うという特殊性もある)

 なるほど、中には口には出しにくく、ノートのやり取りによってそれが書けるから……という子もいよう。しかし、それがために口頭の相互コミュニケーションが充分に出来る多くの普通の子に、「ああ、こんな無意味なことをやらなければならないなんて」と思わせているという欠点を穴埋めすることはできまい。大体、ノートによってしかコミュニケーションを取ることができない子とは、特別にノートを作ってやった方がよい。

 「学習の記録」の感想欄は、そもそも相互コミュニケーションになっていないのも問題だ。子どもが意見を書く。教師がコメントを書く。しかし、それ以上のつながり(教師にコメントに子どもが返事を書くなど)が生じることは、ほとんどない。そもそもノートの体裁が、相互コミュニケーションに向いていない。もし相互コミュニケーションのためのノートなら、自由ノートか、それ専用に作られたノートに書いた方がよい。

 結局のところ、「学習の記録」は、本当に子どものために作られたものだとはとても思えない。大人の側の自己満足のために、子どもが苦痛を強いられるために存在するノートだと私は思う。「学級日誌」も、概して同じだ。役立つ側面がないとは言い切れないが、そんな場面はごく僅かだ。もちろん、そういうことを「書く」ということは良い、あるいは必要な経験かもしれないが、もっともっともっともっと、本当に必要だと子ども自身が感じられるようなことにおいて、そういう記入の経験をさせて欲しいものだ。社会に出た後でもそうだろう。本当に必要だから、何か記入するのであり、社長の自己満足のために社員が何か書かされるようなことがあるだろうか(そんな会社は倒産するだろう)。しかるに、学校では子供達が、教師の自己満足のために無意味なことをひたすらやらされている。