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(以下は、学校現場にいた時に、「総合的な学習の時間」をどのような考え方でやっていくべきだと思うか、という会議の時に私が自分の意見として書いたものです) 目標:主体的な生徒を育てる 主体性を持った人間はいかにして作られるのか。 「主体性を持て」と叱咤されて主体性を持つようになるのではない。 主体的に行動することを許され、かつ主体的に行動したくなるような状況のもとで、主体的に行ったことから喜びと充実を得て、だんだんと主体的行動を好み、主体的行動によって価値ある行動が出来るように自分を作り上げていくのである。 本来的には、主体的な人間というのは、生活のあらゆる場面で大人側からの「主体的な行動」を推奨する言動(援助、助言、叱咤なども含む)が与えられ、褒められ、失敗はあろうが「気にするな。君はもっとやれる」と大きな安心を生むバックアップがあり……ということが延々と積み重なってきて作られるものである。 今までの日本では、「上からの近代化」ということから「こうしろ」という命令がまずあり、失敗したら怒られるという状況の中で教育は行われてきた。これで主体的な人間が育つとしたらその方が不思議であろう。「主体的な人間を育てる」ということは、これまでの日本式のやり方からの決別でなければならない。 子どもが主体的になるためには、大人の側から与えられた課題ではなく、生徒が自ら追求したい課題を自ら設定できるということが必要になる。 いきなり最初から「価値の高い活動を生徒自ら行う」ということは難しいだろう。しかしだからといって、大人側がレールを引いたりしては何にもならない。 今までの学校のやり方(大人側がやるべきことを指示する)に慣れさせられてきた子ども達には、自ら何かを成し遂げようとする力自体が弱いものであるという事を、大人側がまず認識しなければならない。 最初はできないのは当たり前である。できるようになるために必要なのは、彼らが自ら試行錯誤しつつ、どうすればよいのか、どうすればよりよく活動できるのかを体得していくことである。そして試行錯誤(なかんずく真剣度の高い試行錯誤)のためには、設けられる(彼らが設ける)課題が、彼らにとって切実で、大好きで、やりたくてたまらない、やらずにはいられないものでなければならない。もしそうでなければ、「自ら試行錯誤しつつ……」という大前提的条件さえ満たされない。彼らはおざなりにやったふりをするだけだろう。 だから、まず、子ども達自らに課題を設定させるということ。課題の設定は、最初のうちは簡単にはできないと思われる。そのため、これに非常に時間がかかってもかまわないと考えるべきである。最初は大したことができなさそうな課題が設定されたとしても、とりあえずそれをやってみればよいと思われる。 前述のように「自ら何かをやってみる」にしても、子どもたちは最初は大したこともできないだろう。しかし、最初は大したこともできない中から失敗し、つまづき、何かを掴み、フィードバックして、だんだんと高い価値を持ったことも自ら設定し企画し達成できるようになっていくと考えられる。 最初に立てた課題は、数時間で挫折するかもしれない(いや、きっとするだろう。しかし、それでよい)。途中で「やっぱり今のやつはやめてこれにしよう」という意見が出てきて、合意を見たならば、それに乗り換えてよい(「一度決めたことはちゃんとやらなければいけない」という考え方をするべきではない。あるいは、生徒側がそう考えるのならばそれでもよいが、教師がそれを強制してはならない)。途中で計画を見直したり、計画を捨てることができる、ということさえも、総合的な学習の時間においては「価値」と見なされるべきである。 そして子ども達が、これまでの失敗からフィードバックして、新しい計画を立てる。この時(最初の計画設定時もそうだが)、子ども達のこれまでの経験から得られた知見、すなわちたとえば「私に向いている活動はどんなものか?(傾向)」「私が好きな分野はどのようなものか?(嗜好)」「今の状態のこんなことが不満だ(不満)」「なぜこうなっているのか分からない(疑問)」「もっとこうであればいいのに。こうできればいいのに(希望)」といったようなことから、新しい計画が立てられるとよいだろう。そのために、子ども達を主人公とし、教師を援助役とする(将来的には援助役さえ、他の子どもが努めるべきだが)フランクな対話が成立しなければならない。他の時間はいざ知らず、総合的な学習の時間においては、主人公は子どもであり、教師はその援助役か、あるいは子どもと共に同じように活動する限りにおいて存在価値が認められるべきである。子どもたちを引っ張っていくような教師像は、この時間には期待されない。 総合的な学習の時間に、子ども達が主体的に活動するにあたって他に大事なことは、以下のようなことであろう。 ・教師の指導は最低限にとどめる(むしろ、指導などどうでもいいので、子どもと一緒に試行錯誤するくらいのほうが好ましいぐらいである)。子どもが迷ったりできないでいたりしても、しばらくは試行錯誤させる。助ける役は、まず他の子どもに任せる。どうしても教師が出なくてはならない場合でも、最初は短いヒントだけ。丁寧な説明などいらない。また、出来なかったり、やろうとしないことに対して絶対に怒ってはいけない(社会通念上やるべきでないことをやろうとした場合は別であるが)。出来ないことが出来るようになるために、やる気が持てることをやろうというのが総合の時間であるという事を忘れてはいけない。やる気が持てないでいるようなら、「もっと他のことをやった方がいいか?」と教師側が聞くべきである。 ・生徒の存在価値、及び価値観を認めなくてはならない。「お前はダメだ」や、「お前のその考え方はダメだ」は禁句である。子どもが試行錯誤に向かっていくためには、まず、自分の価値を絶対的に肯定してくれる存在がなければならない。「失敗しても大丈夫」だから子どもは試行錯誤できる。それを、失敗したら「ほら、みろ(だからダメだっていったろうが)」などというのは論外で、「失敗したか。でも大丈夫。考えてまたやってみろ」「自分の信じる道でどれだけできるか、やってみろ。応援してるよ」という風でなければならない。教師は子どもというロケットの発射台である。 ・カリキュラムは子ども達が作るべき。大人は計画を作ることができるだろう。しかしそれを子どもに適用したのでは、子どもの企画力は何も伸びない。もちろん、最初は子供達の企画力は乏しいものだろうが、子どもに意見を出させつつ、教師がやや修正して計画を作ることになるだろう。しかしその際に、教師側から見て「ここはダメだろう」と思われるところがあっても、そのまま残しておくぐらいのことをした方がよい。子ども達が、「この計画のこの部分はもっとこうした方が良かった」ということに気づくのを待つことができたほうがよい。そうやって、企画案を考えること自体を子ども達が楽しめるようになるのがよい。 ・人と同じことができるようになる必要はない。総合的な学習の時間というのは、ミニマム・リクワイアメント(最低基準)ができるようになるための場ではなく、自分で自分の生き方、価値観を持てるようになり、人とは違う、自分の生き方をつかむためのきっかけ、修練の場となるべきものである。総合の時間には、「私はこれが得意だ」というものが出てくると同時に、「私はこれが苦手だ」「私にはこれができない」というものも多数発見されるであろう。しかしそれはむしろ慶賀すべきことである。「自分はどのような人間か?」「自分には何が得意で、何が不得意か?」という事がわかることなしには、自分自身の生き方などつかめようはずもない。これまでの日本は、「経済発展」という単一目標に、各人が合わせることによって成立してきた。しかしこれからの時代は、各人がそれぞれの生き方を追求せざるを得ない。もちろん、苦手が分かっただけではなく、得意なものをどんどん伸ばしていくのがよい。その過程で、これはAさんが得意だからAさんに、これはBくんが得意だからBくんに、という分業体制も出来ていくだろうし、そうすればそこで必然的にコミュニケーション技術も磨かれるであろう。「一人一人が違う、ということを期待(expect)し、尊重(respect)する」ということが、総合的な学習の時間に期待されている。それは、今までの日本の「みんな仲良く、同じように」という学習観、人間観からの決別である。 ミーティング(何をやるか?) ↓ 準備(何が必要か? 誰が何をやるか? どこへ行くか?) ↓ 活動 ↓ まとめ作り(報告と、次の活動につなげるためのフィードバック作業) これらは、途中段階で中止して戻ってもよい。 本来的には、主体的な人間というのは、生活のあらゆる場面で大人側からの「主体的な行動」を推奨する言動(援助、助言、叱咤なども含む)が与えられ、フリーハンドが保障されている中で自分(たち)がやったことが褒められ、認められ、また失敗は必ずあろうが、その時には「気にするな。君はもっとやれる」と大きな安心を生む大人側からのバックアップがあり……ということが延々と積み重なってきて作られるものである。欧米では子どもは小さい頃からこのようにして育てられる(欧米人の叱責は「なぜ他の子と同じようにするの? あなたのやりたいこと(意見)はなに?」である)。 今まで(明治以後、および戦後長らく)の日本では、「追いつく」ということの必要上から、「こうしろ」「こうした方がいい」という大人側からの命令がまずあり、その通りできれば褒められ、失敗したら怒られるという状況の中で教育は行われてきた(日本人の叱責は「なぜ他の子と同じようにできないの? 言われたようにちゃんとしなさい」である)。 これが良かったか悪かったかは別として、今までの日本の教育はそうであった、という事をまず認識する必要がある。上記のようであったため、2000年頃までの日本人には、必然的に「こうしろ、と言われたことを出来るのが良いこと(良い生徒)だ」という抜きがたい意識・行動様式がある。これは、子どもにもあるし、もちろん大人にはもっと強くある。 この前提条件の中で「主体的人間を育てる」という目標を立てた場合、考えられる大きな困難は2つある。 ・子どもに「主体的にやろう」と呼びかけてもいきなりうまく主体的にはできない。 ・大人が、主体性を育てる教育のやり方に慣れていないためうまくできないし、 自分たちが慣れてきた教育の方が正しいのではないのか、と思いたがる。 この二つがあわさって出てくる結論はこうである。 「子どもはうまく主体的にできない。だから、やはり昔のように大人が導かなければならない」 一方で、もし本当に主体的人間を作りたいのならば、最初に挙げたような手法を、「これまで主体的であれと言われてこなかった子どもがうまく主体的にできないのは当然だ。彼らが主体的にできるようになるまで、彼らにフリーハンドを保障してやらなければならない」と考えるべきである。「自ら何かをやってみる」にしても、子どもたちは最初は大したこともできないだろう。しかし、最初は大したこともできない中から失敗し、つまづき、何かを掴み、フィードバックして、だんだんと高い価値を持ったことも自ら設定し企画し達成できるようになっていくと考えられる。 主体的人間を作るための手法 ・大人側が、子どもが主体的に行動することこそを喜ぶ。 (主体的行動に一流の価値を認め、言われたことがちゃんとできるとか、他の子と同じようにできるとかいうことには二流、三流の価値しか認めないようにする) ・初期の時点では子どもが主体的に行動しても失敗するに決まっているのだから、それで子どもが主体的行動を諦めてしまわないように、「失敗してもいいんだよ。自分で考えて何かをやることが必要なんだ。君はできるはずだ」という、安全基地、方向づけ、存在肯定の役割を大人が果たす。 ・大人側からの手助けは必要最小限にする。子どもがうまくできなくても放っておく。やりたいこと、切実なことを課題とするならば、子どもは試行錯誤から学ぶ。大人がやるべきことは、子どもが腕をなくしたり、死んだりすること(致命的失敗)を防ぐために常時身構えておくことであって、指導ではない。 ・これらのやり方は「時間を大変ムダにしている」と感じられるかもしれないが、そうではないことを銘記しておくべきである。むしろ取り組みをムダにしてしまうのは、子どもが本当はやりたくもないことをやらされる時、つまり「やらせ」の時である。その時、彼らは真剣な試行錯誤などせずに、「やったふり」をするだけになる。これが本当の「時間のムダ」なのだ。 |