思考の物置

政治家や医者に怒るのは筋違い



 1960年代に、ジェームズ・ブキャナンとゴードン・タロックが唱えた公衆の選択説によると(『徳の起源』P45)、政治家や官僚も、やはりどうしても私利を追求してしまうという。しかしそれで構わない。「彼等は私利を追求してはならない」とか「私利を追求するべきではない」とか「私利を追求しないハズだ」という様なウブな議論は必要ない。

 彼等に、大衆の意思に従うことがすなわち私利を追求することであるように、強要すればいいのである。つまり、彼等と共生関係(それも、抜きがたい共生関係)を構築してしまうことだ。彼等が生き延びる道は、大衆の意思に従うことしかないのだと、思い知らせてやることだ。

 それがなされていない――すなわち、政治家や官僚が、大衆の利益に反することをする――というのは、つまり彼等は大衆以外の何かと共生関係を結んでしまっており、大衆に依存する必要がない、という事を示している。彼等は明らかに今現在、「大衆の意思に従わなくても自分たちは生きることができ、利益を得ることができる」と考えている。だから、大衆を食い物にしたり、無視したりすることが可能なのだ。その、「大衆の意思に従わなくても生き、利益を得ることのできる」という彼等のバックは何なのか、彼等とナニが、共生関係を築いているのか、それをまず、知らねばならない。

 そして、政治家・官僚とそれらとの共生関係を崩し、大衆との共生関係を築かせねばならない。このことは、待っていて達成されるものではない。この関係は、誰かに与えて貰えるものではない。自分たちから、強要せねばならない。不断の努力によって、政治家・官僚に言い聞かせねばならず、常にその関係を身を以て教え続けなければならず、その状態を維持する為に日々戦わなければならない。

 日々闘うことを覚悟した者だけが、「市民」と呼ばれ得るのだ。



 日本では、問題を起こした企業に対して「社会の公器たる企業は、社会的責任を果たさなければならない」とか「消費者の利益を一番に考えて行動すべきだ」などということを言うが、まったく日本文化一流の他力本願的事大主義と言えるだろう。

 企業(株式会社)というのは、その起源から言って、そういうものでは根元的にない。株式会社の唯一の使命は、株主に配当を行うことである。配当のできる株式会社は良い、配当のできない株式会社は悪い、これがまず第一の命題だ。

 しかし、この第一の命題から、「企業は問題を起こしてはならない」という事も導かれるのである。すなわち、問題を起こした企業は業績が悪化し、配当ができなくなるだろう、というのがそれだ。

 ところが日本文化は、「水に流す」文化のためか、問題を起こした企業の業績をそれほど悪化させることをしない。すなわち、不買運動や取引停止を行わない(もっとも、業界内の慣行(談合とか)を破った成員(企業)に対しての取引停止にはものすごいものがあるようだが……)。そのため、日本の企業は問題を起こしてもそれほど不利益を被らない。だとすれば、日本の企業は問題がある程度以上の割合で発生したとしても、それを放っておくだろう。

 これが、問題のある企業に対する不買運動がすぐに起こるとしたらどうか。企業は必死で、問題を起こさないようにするだろう。問題を隠す、という事もあるだろうが、アメリカの様に、問題を隠して後でバレたらもの凄い司法処分が下り、同時に問題を明らかにする姿勢をとっている企業の業績や株価が上がる、というような社会文化的背景があれば、企業は問題を隠さないようにしようとするだろう。




 医療ミスなどに対して、改善を促す最も確実な方法は、大衆が医者を選ぶことだ(ただし、ミスをした事自体を問題にしてはいけない。ミスは起こるものだからだ。ミスを隠していたか、オープンにしていたか、態度は誠実か、などを問題にすべきだ)。

 そうすれば医者は確実に変わらざるを得ない。どんな行政指導よりも効果があるだろう(もっとも、大衆側もある程度のコストを払うことになるが、どっちがマシなのか、だ)。

 しかしそれゆえに、行政側はそのような大衆の行動をいやがるだろう。それをされてしまったら、行政の出番がなくなる。行政の権限拡大が出来なくなる。だから、行政側は行政指導による統制を行おうとし、それに大衆を安住させておこうとするのだ。しかし、結局は大衆の行動が最も効き目があるのだということを分かっていればこそ、大衆はひどい目にあわずに済むことになる。行政に頼っているのは、楽かもしれないが、被害を本当の意味で防ぐ効果は薄いことを知るべきである。