思考の物置

大人が用意する子どものための取り組みについて



 週5日制の完全実施にともなって、「土曜日や日曜日に子どもはだらーっとしたした時間を過ごすだけになってしまうことになりかねない。子どもの理数科離れを食い止めるために科学のおもしろさを伝えたり、主体的意欲的に取り組む力を身につけさせるための面白い教室を開くことが必要だ」などという意見が出てきて、実際に土曜日、日曜日にそれらの教室が開かれるようになった。つまり、大人が用意する、子どものための取り組みである。

 しかし、そもそもそれが上からやってくるのが癌なのだ。本当は、子どもたちが自分達で「このような集まりを作りたい」と思い、そのために努力する、という風であるべきなのだ。

 しかしそれを大人側が「子どもにはその力がないから」とか「放っておけば遊んでいるだけだから」と決め付けた上で、大人側が望ましいと思う活動をやらせるためにあらゆることをお膳立てするわけである。

 なるほど、そこに参加した子どもはまあ楽しめはするかもしれない。興味も持つかもしれない。しかし、生きる力はつかないだろう。自分が興味を持ったものに対して、自分から働きかけ、必要なら仲間集めをし、コミュニケーションスキルを身につけ、組織を運営し、必要なものを手に入れるために大人と交渉する。そういうことを、大人側のお膳立てはすべてすっとばしてしまう。あるいは、そういう必要性をなくしてしまう。

 大体が、大人側が用意するそういう取り組みは、ホントに子どもがやりたくなるようなことなのだろうか? 化学実験とか、伝統文化のおもちゃ作りとか、演劇とか。子どもが夢中になってどんどん、大人側が「おいおい、もうちょっと抑えとけよ」と思うほどにやったりするものなのだろうか。私は、そういう大人側が用意する取り組みが全くない方がいい、とまでは思わない(ちょっとはやってもいいだろう)が、しかしそれがメインのものとして子どもに良い影響を与えると思っているのだとしたら、それは全然違うと思う。

 子どもが勝手に生きる力を身につける環境というのは、子どもが好きなものに手を出すことができ、しかしそれを大人側が全部お膳立てしてくれるわけではなくて同じ趣味を持った子供同士が協力しなければならなかったりする……というようなものであろう。大人はそこで、全面的反対もしないし、全面的協力もしない。ただちょっと苦言を呈したり、アドバイスをしたり、手助けをしたりする。そういう状況でこそ、子どもたちは「自分たちがやりたいことをやるためにどういうことが必要で、何を身につけなければならないか」という事を、別に意識するでもなく、勝手に必然的に身につけるのである。

 現在のような、大人側がすべてお膳立てする取り組みには、そういう視点が決定的に抜けているし、またそれ以上に恐らく、ノスタルジーと、アンシャン・レジーム(旧体制)維持のための大人の心情がそれをさせているのだと言ってよいだろう。

 大体が、大人たちも多数参加して熱気に満ちている、というような取り組みならともかく、それを好きだというのは講師の先生だけで、他の大人は(別にそれが大好きというわけでもないが、評価すべき取り組みだと思うしアンシャン・レジームの維持に役立つからという理由でのみ賛意を示しつつ)なるほどふんふんと聞いていて子どもに「どうだ、これをやれよ」と言ったところで、子どもは上からおっかぶせのものを感じないわけにはいかないだろう。それ自体がやや面白いもの(すごく面白いということはあまりありそうにもない)であったにしても、「あー、面白かった」で終わるのがおちだ。それ以降、子どもが自分からその取り組みを組織したりするだろうか。そういうものを買うために駆けずり回ったりするだろうか。まあ1000人に一人ぐらいはそういうこともあるかもしれないが、その程度のことが、その取り組みの目指すことなのだろうか(それだったら予めそういうことを狙っていますと明言すべきだ)。

 子どもが勝手に駆けずり回るようなことに対して大人は援助すべきで(これは教師と教育委員会との間でも同じだ)、「させたい」ことを無理に(無理にだろう)設定してそれをやらせる、という取り組みの多さから解放されるべきだ。まさに民度が低い証拠といえるだろう。

 だから、たとえフリースクールの活動にしても、フリースクールが子どもを丸抱えにしてはいけない。フリースクールは、そこはそこなりに有意義な活動ができる、ほっとできる場所であるべきだが、子どもはいわばそこを安心できる、戻ってこれるベースとして、様々な活動に自分の意志と力で取り組んでいくべきだ。まさにフリースクールはオープンエンドの基点となるべきなのであって、現今の学校のようにカリキュラムに縛られ、そして学校的価値以外のもから子どもを遠ざけるために縛りつけ、そしてそのために子どもにとって無意味以外のなにものでもない上から取り組みが雨あられと降ってくるような、そういう場所になるべきではないのである。