思考の物置

高校の勉強は、全員にとって必要な内容なのか




 2004年1月の学力調査発表で、数・理の学力は低下し、英・国は想定の平均点をクリアした、という発表がありました。ほぼ同時に、生徒が「それぞれの教科は生活に役立つと思うかどうか」というアンケートに対する答えが、国語は73%、英語は65%、数学は35%、理科・地学などは33%ということでした(数字はうろ覚えです)。

 この話をテレビで見ていて私は、子どもは「生活に役立つ」と思っている事はある程度勉強しているが、生活に役立たないと思っている勉強からは手を抜いているらしい……という仮説が成り立つのではないかと思いました。

 で、このことに関して、理科教育に詳しいという高校の先生がテレビでこういう風に言っていました。
「たいへんショックです。今君たちがやっていることは単調で難しいように思えるかもしれないが、これらの知識が基礎となって新しい発見に結びつくのだから、この勉強は決して無駄ではない、と話しているのですが」

 そして、文科省は指導の改善を図っていくそうです。


 しかしこの先生の発言で私がひっかかったのは、「この知識を基礎として新しい発見をする」のは、その授業を受けている子どものうちの何%なんだろう? という事でした。0.1%もいたら高い方なのではないでしょうか?

 明らかに、99%の子どもにとって、そもそも新しい発見などするつもりがないのだから(というか、他の職業に就くのだろうから)それらの知識は、関係がない。中学校までの勉強には、「世の中のほとんどの人が知っていて当然な基礎知識」という意味合いがあり得ると思いますが、高校の授業は、いみじくもその高校の先生が言っていたように「新しい発見に結びつくための基礎知識」なのであるとしたら、「新しい発見」をしたい人には必要ですが、そもそもそうではないだろう人には何の関係もない、という事にならざるを得ないでしょう。

 高校の勉強の必要性の側面はそれだけではないと、もちろん思いますが、先述の先生が言う様な意味合いならば、高校の科目は選択制にしていった方がいい……のではないかと思います。「自分に関係がある」「だから、勉強する」という形に。

 (もっとも、『タテ社会の人間関係』(中根千枝 講談社現代新書)で言われていたように、日本社会というのは個性の尊重の側面が甚だしく低く、加えて「ワンセット主義(得意分野に特化するよりもすべてのことができるようにしようとする)」なので、その面が「選択制」への流れを阻害していると言えるのでしょう)