思考の物置

学校現場を支配するキーワード




(このコンテンツは特に、「書きかけ」状態のひどいものですが、非常に重要な事が書いてあるのでそのまま載っけてあります。すいません)


「学校現場を支配するキーワード」

 カリキュラムの強制 → 必要なものは官僚が決める
 ノスタルジー → 自己教育力への信頼の低さ、上が下を教育する、官僚制
 ディスコミュニケーション → 独善性、非情報公開、多様性排除
 アンリアル → 官僚によるアンリアルの増殖、非検証性
 やらせ


  ↑
  ↓

「本来あるべき教育の姿」(と私が思うもの)

 オープンエンド
 未来への視点、未来への当為
 コミュニケーション、ディスクロージャー
 リアル、
 本当の自主性






 「教育現場が民主的でなければ、日本が民主的になるわけがない」

 大きな勘違いによるお節介


 私は、教師が優秀ならばある程度子どもを救えると思っていた。しかしダメだ。制度がそもそも、子どもを苦しめている。制度の悪さを教師も嘆かざるを得ない。つまり、制度そのものを変えない限りは、この国の教育問題をなんとかすることなどできないのだ。


 明治以来、そして戦後にその機能を最大限に高めた官僚制(ビューロクラシー)が、この国の恐ろしいほどの繁栄を作り出した。そのあまりの成功体験の大きさに、そのやり方をあらためることができない。成功体験の大きさゆえに、この国は滅びるだろう。


 子どもの気持ちに寄り添おうとすれば、体制に反逆しないでそうすることはできない。子どもにとっても私にとっても、どう考えても体制の方がおかしいことばかりだからだ。体制側は、「子どもの気持ちに寄り添うように」とお題目を唱えてはいるが、その実、体制自体が、子どもに寄り添うもの、あるいは子どもの自主性を発揮させるものになっておらず、子どもに無理矢理の強制を強いるものばかりなのである(その矛盾をなんとかさせようとする試みの結果が「やらせ」だ)。
 結局、体制を変えることなしに子どもに寄り添うことなどできはしない。「校内講師による人権教育講話」の研修会がそれを物語っている。結局のところ、官の「お仕着せ」に子どもは犠牲になっているのだ。





 日本の教育は官僚を作るためであったと多くの論者は言う。そして官僚は、官僚的価値観を再生産するために教育を規制する。官僚によって支配されている現場の教師は、官僚的価値観に合致することを子ども達に求める。
 日本は今官僚に苦しめられていると言うが、世の中の価値観全体が、官僚的価値観に侵されているのだ。


 「世の中のリアルな仕組み」について語る時、子どもの目は真剣になり、興味を示し、大きな反応を返す。しかし学校で行われる「仕組みの説明」は、ほとんどの場合アンリアルな虚構だ。道徳などは、答えがわかっていてつまらない、という。これをどうにかすべきではないのか。


 とにかく型にはめておく(制服、服装規定)
  「服装の乱れが生活の乱れ」

 「子供の要望を容易に聞いてしまうのは良くない」
   子供に我慢させるのが必要
     ↓
   ディスコミュニケーション(押し付け)へ


 注意すると文句を言う。なぜ? ディスコミュニケーションがあるからでは?


 「夏休みの生活の心得」などの保護、規制、強制。
  「大きな学校」マニュアル化、社会の学校化
   外泊の禁止、アルバイトの禁止


 家や学校で充分話し合っておけばいいことでは? 本人の価値を認めつつ



 宿題の押し付けによって、本人の個性を伸ばす時間を奪う