思考の物置

「カリキュラム」(時間的制約)に対する批判



(この項について、「カリキュラム(これこれの時間でこれこれをやるべきだ、と定められた教育計画)」が「オープン・エンド(終わりの無い形)」であるべきだ、というのは自己矛盾ではないか、というご意見をいただきました。「うわっ、ホントだ!(×_×)」と思いました。書き直していこうと思っているのですが、いっぺんには出来ないので、項を増やしていく形である程度対処していって、後でまた統合するつもりです。スイマセン_(._.)_)



 カリキュラム。「これこれの間に、これこれのことをやらなければならない」この縛りこそが、興味に従ってものごとをやっていく正統派の学習を困難にさせる。

 私が思うに、カリキュラムは、枠の中に閉じ込められたものではなく、開放性を持っていなければならない。オープン・エンド(終わりの無い)の形になっていなければならない。そのため、学校の制度は「学びのために開かれた」形になっているべきで、「習得を義務付ける」という形になっていてはいけない。

 河合塾では、学校でつめこみ学習がされていることを考慮して、それ以外にできることとして教科の楽しさを教えるという。教科の楽しさを知った子どもは勝手に伸びていく。ここで問題なのは、大方の学校では実際上、つめこみ学習しかできないということではないだろうか。カリキュラムの制約のために、学校では教科の「面白さ」を充分に伝えるだけの時間は持てない。塾だから、カリキュラムの制約から逃れて、充分に教科の楽しさを伝えることができる、というまことに皮肉な状況になっている。

 学校のカリキュラムは、「○○時間でこれだけのことを教える」という縛りが強すぎる、あるいは、余裕がなさすぎるのだ。