思考の物置

「授業のあり方」への批判


 授業について、校長などは「授業のメインがなければならない」「一時間完結でなければならない」「理解ができなければならない」と言う。

 しかし私の考える授業の形は、かなり違っている。

 たとえば、授業のメインがなければならないと言うが、それぞれの子にとってのメインはそれぞれ違っているべきではないか。教師側で勝手に設定したメインに従うべきだという精神がそこにないか。

 また、一時間完結でなければならないというが、むしろ授業が不完全な形で終わった方が、疑問・興味が継続される。興味が引き続き、授業以外の時も関心を持ちつづけさせるようであるべきではないだろうか。

 理解ができなければならないというが、理解できない、納得できないからこそ、自分で調べたりするということがある。私が社会科関係のことを様々に調べ始めたのは、まさに、授業時間に疑問を持った、納得できないことがあったことがきっかけであった。

 すなわち、興味付けが大事なのだ。興味はおのおのであり、オープンエンド(終わりがない形)である。授業のあり方としてメイン、完結、理解ということを言うが、しかしそれは、古い教育における考え方というべきではないだろうか。それは押し付け的で、「必要なものは教師が用意し、生徒はそれを過不足なく理解せよ」というものなのだ。つまり独善、押し付け、寄らしむべし、強制・規制なのだ。

 しかしこれはなぜなのか。それはカリキュラムがあるからだ。カリキュラム! やはり、カリキュラムというものこそを絶滅させねばならないのではないか? オープンエンドであるためには、カリキュラムが邪魔なのだ。いや、カリキュラムが全くないべきだというわけではない。ただ、上からの一斉カリキュラムが問題なのだ。子どもがカリキュラムを作る、とまではいかなくても、子どもがカリキュラムを選べる、というだけでも、全然違ってくる。そこにオープンエンドの意味合いが生まれてくる。しかし、現状ではそれもほとんどできず、カリキュラムはあくまで強制されたものなのだ。

 「計画に従った授業」というのに疑問を覚える。クラスによって、反応の大きいネタはわりと違うものである。例えば閔妃虐殺事件とハーグ密使事件では、ハーグ密使事件の方が反応が大きいと思っていたが、わりとそうでもなかったり。クラスによって、どういう話題に大きな反応を示し、また質問が出てくるかということはかなり違っている。だとすれば、こちらから授業の計画をきちんとするということだけではなく、反応を見て「あ、このことに大きな興味を持っているな。だったら、この件についてもっと色々話をしてみて、もっと大きな興味を引き出してみよう」ということが大いになされるべきだと思う。

 つまり授業は臨機応変であるべきだし、もっとも大事なのは「生徒の興味」ということなのだから、それが得られるならば、あるいはそれが得られるように、どんどん授業を授業中に作り変えていくべきなのではないか、と思うのである。そしてそのことによって、最初の授業計画が全然違うものに塗り替えられてしまって、まさに「生徒が作り出し、教師が支援する授業」になれば、その方がよほど良いではないか。

 授業を1時間づつかっちりとした形で結果を出さねばならない、とは思えない。形式よりも大事なことがあろう。オープンエンドがむしろ目指されるべきではないのか。