思考の物置

上意下達のカリキュラムが大事なのか?

 それとも、子どもの動機付けが大事なのか?



(どちらか「だけ」が大事ってことはないハズですが、まあ、どちらがより大事か、ってことで……。実は以下はある人にメールで送った内容なのですが、ある程度まとまった文章なので、ここに転載します)


 色々並び立てられている美辞麗句にもかかわらず、学校のシステムや教師の考え方は、「上が下の者に言うことを聞かせる、上の意に添うように持っていかせる」という枠をほとんど出ていません。そして、それを改革しようとする動きも確かにありますが、一方でそれを保存し、強化しようという動きも大変強いものがあるわけです。

 で、それ(上意下達)でいいじゃないかと思える人にとってはいいのだと思いますが、私はそのやり方についていけない人間でしたので、学校現場にいることが大変つらくなってしまいました。子どもと一緒に(大人が私一人で)いる時は、自分が喋るよりも多く子どもから話を聞いて(授業はまた別ですが)、楽しかったですし、ある程度うまくできていたと思いますが、周りの教師(若い人も含めて)や学校のシステムがあくまで「上意下達をよしとする」ものなので、「この人たちとは一緒にやっていけない」と。だから授業中は楽しいんですが、職員室でいる時や職員会議の時には周りの教師の喋っていることの内容を聞いて「なにゆーとんねん」と悶々として、ケンカしたり、「いや、私はこう思う」という事を必死でメモしたりしてました(^_^; 生徒と話していても、生徒が「あの先生のここが嫌い」とか「なんでこんなことをやらせられなければいけないのか?」というのを聞いて、ほとんど「うん、そうだよな」と思ってましたし。

 問題が、教師たちの考え方だけの問題ならば、現場にとどまって長い間かけて変えていけばいいという考え方もできたと思うのですが、実際には学校のシステムが、教師に上意下達を要請しているんです。現状では。で、去年(2002年)から今年(2003年)にかけては特に、その上意下達システムを強化しようとする動きの強い時期だったこともあって、「これはもう、私はイヤだ」というのと、それにもともと学校以外の学校に行くつもりでしたし、また、学校を改革するためには、学校内部にいてもほとんど不可能で、むしろ外部のフリースクールなどが成功するのを見せつけた方がよほど良いのではないかと思ったことなどもありました。


 ただ、「上意下達(上位の者の考えや命令を下に伝えること)」−「教化(教えたり影響を与えたりして、人をよい方向に進ませること。インドクトリネーション)」と言った方がより正確だと思いますが−で良いではないか、それをしないからダメなのだ、という意見ももちろんあります。

 で、それに対して「いや、子ども自身の興味付けや育つ力が重要なのだ」という意見がある。

 私もこの事については散々悩みまして、中学校講師として行った当初にはある程度権威的に振る舞ってみたり、「こう思うよ〜」という事を語りかけしたりもしてみました。

 その結果として、私が得た経験則は、「子ども自身が、この人の言うことは聞いてみよう、あるいは、このことについて知りたい、と思った時には、よく聞いてくれる。しかし、大人側の一方的な思いによって何かをさせよう、何かを身につけさせようと思っても、それはあまりうまくいかない」という事でした。


 結局、システム的な面で私はこう思っています。

 高度経済成長(少品種大量生産)の時代には、学校は多くの子どもにとって役に立つ場所であり、来たい、得になる場所だった。学校で教えられることは、大人の言う事に従えという原則と、知識の詰め込みではあったが、それが、社会に出てから充分に役だった。当時の日本の会社は、指示に従って黙々と何かを作ることができるような、会社に従う、ある程度以上の水準の学力のある人間こそを重用したからだ。

 ところが高度経済成長が終わると、「(よい)学校に行けばよい会社に入れてよい生活ができる」ということがアヤしくなってしまった。もはや指示に従って黙々と何かを作る仕事の価値は激減し(これらの仕事は東南アジアや中国でされるようになってしまった)、むしろユニークな商品を作り出したり、新しいサービスを提供できることに大きな価値が置かれるようになる。そのため、会社で求められるのは、(協調性は必要とされるが)他品種少量生産のためのオリジナリティと問題解決能力であり、それを身につける為には好きなことをやり、自分の才能を開花させねばならない。

 そのためには、ある一定の枠組みの中である一定のカリキュラムをこなすことよりも、個性に応じて自分なりに試行錯誤しながら様々なことにチャレンジしてみることが必要だ。しかし、学校と教師は古いシステム(自分たちが馴染み、それしかできないやり方)にしがみついて、「学校という枠組みの中で、このカリキュラムをこなすことが万人にとって必要だ」という幻想を子どもに強制する。子ども達は、それに対して「なにかおかしい」と気づいているが、ちゃんと説明できるわけではないので、学校に行かなくなる事で抵抗したり、強制のストレスからいじめをしたりする……。

 この現状を改革するためには、学校という枠組みやそのやり方が「万人にとって必要だ」という考え方を改めるやり方がある。学校全廃という事ではなく、学校のやり方以外の学校(オルタナティブスクール。フリースクールやホームエデュケーションやチャータースクールなど)があってもいい、でも学校もあるよ、好きなところ、自分が行って最も良いと思うところに行きなさい、という方法。

 その他に、学校のシステムをそもそも個々人の選択履修方式にしてしまうという方法もあり得る。小学校程度は必修とするが、それ以後は段階的に選択履修にする。履修場所は学校に限らない。NPOや塾などもそれぞれの努力で授業や講義を主催し、子どもはそれを自分の必要、興味に応じて、色々なところに行って履修する。単位認定は、年数回の共通テストによって行われ、必要な点数をとれば単位が認定される。大学や専門学校は、「うちの学校を受けるためにはこれこれの単位をとっておいて下さい」と指定し、必要があれば問題範囲を公開の上で選考試験を行う(これは社会学者の橋爪大三郎さんなどが提唱している案で『選択・責任・連帯の教育改革』という本に述べられている案です)。

 しかし両案とも、様々な理由から実現はものすごく困難だと思います。

 ですが、とりあえず何かしないわけにはいきませんし、努力せずに現状を変えることもできませんので、オルタナティブスクールに関わって、オルタナティブスクールのようなやり方の方がよいのであって、学校を唯一無二と考えるようなやり方はダメなのですよ、という事を事実として突きつけていく(それだけの能力があると確信できるわけはないですが、まあ、努力して)ことが、今できることかなぁ、と考えているわけです。

 まあ、いかに行政改革させる手練手管があり得るか、という勉強もしていくつもりですが……(ホントは、知事になる、というのが現状では一番手っ取り早い改革へ近づくための道だとも思うんですが、そんな能力はなさそうですし)。