思考の物置

「人権教育」に対する批判



 「人権」という考え方の肝は、「公権力は人民の権利を侵す。そのため、公権力は人権の保障をまず約束するべきだし、そのチェックを人民は常にやっていかなければならない」ということである(ここでは詳論に立ち入らないが、百科事典で「人権」を調べたり、書物で『人権の歴史』などを読むと、基本的にこの「公権力が人民を圧迫しようとするのに対する権利」が人権であり、「差別はいけない」の類は、ほとんど全く出てこない。ただ、人権という言葉は段々と拡大解釈されてきており(それ自体は悪いことではない)、その中に「差別はいけない」の類の考え方も入ってくるようになってきてはいるらしい)。


 本来の人権問題において、チェックされるべき対象は公権力の方である。しかるにその公権力の側から「人権教育」というものを持ち出して、「人権という考え方を広めましょう」「人権を大事にしましょう」と教育する、というのである。

 これが例えば、「公権力こそがまず人権を侵害するのですよ。だから、我々公権力の側を、あなた方市民はしっかりチェックしなければいけません。常にチェックをお願いします」という事を啓蒙するための教育、ということなら、話は分かる。大変素晴らしい啓蒙活動であろう。その後に、付け加えて「お互いを大切にしよう、という様な事も人権ですよ」とは、言ってもいいだろう。

 しかし、「お互いを大切にしましょう」「差別意識を持ってはいけません」というような、(それ自体確かに大事ではあろうが)本来の人権というものからやや拡大解釈されたことだけをアピールし、上から教育し、かつ、本来の人権思想には全然触れないという姿勢を公権力は示すのである。

 ここに垣間見られるものはなんであろうか?

 1.単なる勘違い?(実際、日本人には人権というものがそもそも理解しにくい*)
 2.善意の拡大解釈?
 3.人権というものが公権力側をチェックするものであることを隠蔽するため?
 4.人権教育の名のもとに、公権力側の力をより一層強大化させるたくらみ?


 *日本人は、「お上は善をなすもの」「お上頼み」という意識が強い。時代劇を見たとき、水戸黄門、大岡越前、遠山の金さん、鬼平など、全部公権力側の人間である。そうでなくて民衆のヒーローなのは、鼠小僧ぐらいであろうか。
 逆に欧米では、「公権力は放っておくと民衆を苦しめる」というのが当たり前の考え方で、だからこそチェック機能が大事にされるし、そういう感覚を国民みなが大事にしている。


 人民が「公務員(権力者)たちは俺たちを縛るな、わけのわからない上からの命令には負けないぞ。俺たちの権利をちゃんと保障せよ」というのが人権だ。ところが日本の公務員たちは「私たち公務員が言っているように、人民同士お互いを尊重しなきゃダメですよ。それが人権という考え方なんです」という話に持っていっている。

 人権教育(人権作文)は、法務省や法務局が担当している。法務省といえば、日本の中での法律の専門家であろう。なるほど。これらの部局が、いわば確信犯でこういう誤解を植え付けているわけだ。(法務省管轄の刑務所での人権侵害などはどういうことだろうか)




 教師には子どもの意見を圧殺できる公権力が与えられており、そこには市場原理が働かないようになっているため、要望を聞かなくても給料が減らされることもクビになることもない。その上、「子どもを見ている」ということから、日本における腐敗の最後の聖域と化している。彼らは子どもの意見を聞く必要性が認められておらず(形ばかりのものでかまわない。指導といえば大体なんでも可能だ)、逆に自分達の言うことを聞かない子どもを罰する権利すらあり、子どもが合法的に、公正にそれに抗うすべはほとんどない。

 人権の宛て名は、私人たちを抹殺してしまえるほどの権力を持つものとしての「国家」「公権力」だが、日本においては企業もそれに匹敵する力を持った(転職の自由がほとんどないため)。そこでは自由な意見表明や居住の自由などが奪われ、社員は会社の奴隷という状況が現出し、それも「人権侵害」であるとみなされ得るようになってくる。このように、「人権」は「私人に対する圧殺を加えるほどの力を持つ」組織に対しても拡大解釈されていくわけだが、しかしそれにしても「みんな仲良く」「差別はやめよう」などの類が「人権思想」とはいえない。歴史上人権思想確立のために尽力した人々は、それらが「人権」だと聞けば、全く否定するだろう。

 そしてむしろ日本ではこの「みんな仲良く」ということ(組織人は組織に逆らってはならないということ)が、まさに人権を圧殺するための恐ろしく都合のよい理由となっている。





 日本人、特に日本の子どもにはほとんど人権などというものはない。しかしだからといって、単に力ずくで反抗しても、「ほら、子どもは反抗するじゃないか。やつらは好き勝手にやりたいだけで、自分に都合のいいことばかり言う。だから、人権などというものを認めてたら大変なことになる」という事になり、ますます人権抑圧がひどくなっていく(ここ数年は少し緩和されていたものが、またひどくなりつつある)。
 列強の植民地政策と同じである。

 人権を抑圧している側は、そもそもそれが人権抑圧(悪いこと)などとは少しも思っていない。多くの日本人はそれが「よいことだ」と思って人権抑圧しているのである。そこがまず問題なのだが、だから、それに反抗すると、ますます「よいこと」としての人権抑圧をしなければならない、という理屈になる。

 人権抑圧のやり方は多くのテクニックに支えられている。それに対抗するには、それを上回るテクニックによらなければならない。

 人権抑圧をよしとする勢力の考え方を変えることは、容易ではない。
・まず、年をとっているから必然的に頭が固い(これは生理学的にやむを得ない)。
・自分たちはそのやり方に適応しているから、その環境がてひどいダメージを受けない限り、変更の必要性を認めない。
・変更の必要性があるように思えたとしても、自分たちが新しいやり方に対応できる可能性は著しく低いから、昔のやり方の方がよいのだ、と思いこもうとする。
・その結果、自分たちが現役の間はとにかく自分たちのやり方を貫こうとする。(その後にどんなダメージがあったとしても(といっても、それを認識できれば、の話だが))

 これに対抗するためには、力ずくの対抗は効果が薄い。力を握っているのは彼らだから、激烈な反撃に会うことになるからである。対抗策としては、力を握ること、テクニックを身につけること、妥協の方法を磨くこと、などがあるが、もっとも確実(しかし消極的)なのは、彼らの死と引退を待つことである。

 ハンセン病患者のひどい扱いにおいても、人権抑圧推進者が死んで、その弟子たちが引退してやっと、方向転換が可能になった。日本という社会は、理屈が通じる社会ではない。理屈の正しさが通る社会ではない。どんなに無茶なことを言っていても、それを言っている人が偉ければ、あるいは大多数であるならば、それが通ってしまう社会なのだ。



 私が現今の学校教育に対する反対活動や反対言動をしたとしよう。もともとそういう活動は、現在の秩序の枠からはみ出すことになる、不安定な生き方である。しかるに、その反対活動に対して現今の学校教育を守ろうとする人々は、私の言論を圧殺しようとするだろう。暗に陽に考えを改めるように説得し、圧力をかけ、それでもきかないとなれば生活の糧を奪ったり、言論活動が出来ないようにしていくということも考えられる。これこそが「人権の侵害」であり、公権力側が個人の意見表明権や生存権を奪うことなのである。「差別なくみんなで仲良くしましょう」というのが人権なのではない。






 私が社会科教師として公民を教えるようになった時、当然、「人権」が教科書に出てきて、これを教えなければならないわけであるが、私も当時、「人権」というものについて良く分かっているわけではなかった*1。そのため、自分でも授業を行う前の準備段階で色々と分からない事が出てきて、調べたりしていた(というか、どんな分野でも私はわりとそういう感じで、自分で色々調べながら授業の準備をしていた)。

*1.もっとも、今でも「ちゃんと」分かっているとは思っておらず、勉強中であるし、勉強したいと思っている。

 ただ、一年目はあまりその「人権」ということだけに関わっている時間もなく、あまり調べられなかったように思う。しかしその頃から、私自身に強くあった疑問は「『言論の自由』とは、誰に対して求められるべきものなのか?」という疑問だった。

 具体的に言えば、長崎市長が右翼に撃たれた事件に関して、「これは言論の自由を侵すものだ」という言い分に、