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毎年元旦に、河口湖畔に向かって若者達がはた迷惑な暴走行為を行う「初日の出暴走」というのがあります。 警察はこれを阻止しようと躍起になって……というのを結構テレビで見て、「おお〜、大変だなぁ……」と思うのでありますが、この暴走行為をしようとする若者達に関する北野大さんや福留さんのコメント。 「教育の失敗だ」「しつけが出来ていない」「近頃の若者は、人に迷惑をかけることをなんとも思っていない」……えとせとら。 これらのコメントに、私は「それは違うだろう」と思うこと大であります。 まず、「人に迷惑をかけることをなんとも思っていない」という件に関して。これに関しては、私は逆に、「彼らはそれ(暴走行為)が人に迷惑をかけると、良く分かっているからこそ、それをやるのだ」と思います。 じゃあなぜ、「人に迷惑をかける」と分かっていてやるのか? それは、彼ら自身が周りの人たちから無視され、あざけられ、差別され、周りの人たち、平穏な暮らしをしている人たちに恨みを抱くまでになっているからではないか、と思うわけです。だとすれば、「わざわざ迷惑になるような事をやる」のが「当たり前」でしょう。 彼ら若者が、わざわざクラクションや爆音をうるさげに鳴らして暴走行為をするのは、「彼らが純粋にそういう行為が好き」だからでしょうか? もし彼らが誰か篤志家?の好意によって、アメリカかどこかのだだっぴろい草原の真ん中の道でクラクションや爆音を響かせて暴走行為をしてもいいよ、と交通費やガソリン代や改造費も全部出してくれたとして、彼らが喜んでそうするでしょうか。私にはそれはあまりありそうな事には思えません。 彼らは、日本で、周りに平穏に暮らしている人々が、静かに時を過ごしたいと思っている時にこそ、警察に追っかけられながら、暴走行為をしたいのだ、と私は思います。それが、彼らを普段バカにしている人達への仕返しになり、ストレス発散になり、そのような大それた行為のできた自分たちの存在価値(彼らには「人に迷惑をかけることができる」という事くらいしか、自分の価値を見いだせないのかもしれない! なんと哀しいことか……って、私も人のこと言えた口ではありませんが)を示すことになり、また、自分達のことを追っかけてきてくれる警察もいる……と。 北野氏や福留氏は、彼ら若者は普段、周りの人たちと平穏に行為と敬愛の中で暮らしているが、元旦に日の出暴走をしたいという趣味を持っていて、その衝動が抑えきれず、また迷惑をかけることをなんとも思っていないから、それをやるのだ、と考えているのでしょうか。 それよりは、彼らは普段から周りの人たちから白眼視されていて、いつも溜まっているストレスを、元旦に初日の出暴走という形で迷惑を盛大にかけ、鬱憤晴らししようとするのだ、と考えた方がよほど理解しやすいでしょう。 もしかしたら、「迷惑をかけることを何とも思っていないからこそ、普段から周りの人たちに白眼視され、それでストレスが溜まって、さらに迷惑をかける行為に及ぶのではないか。どちらにせよ悪いのは彼らではないか。」という反論があるかもしれません。 しかし、それならば、「彼らは人に迷惑をかけることを何とも思わないから、初日の出暴走をしようとしている」という理屈は成り立たないでしょう? 実際、「ニワトリが先か、タマゴが先か」という話になりかねないのですが、ここから先は「若者が好意に値しないから」が先なのか、「若者が好意を与えられないから」が先なのか、という話に帰着するように思います。 ここで、「しつけが出来ていない」という話が出てくる余地が生まれます。 しつけが出来ている子 → 好かれる → 迷惑行為をしない しつけが出来てない子 → 嫌われる → 恨みが溜まる → 迷惑行為をする あるいは、 しつけが出来てない子 → 迷惑行為をする と北野氏や福留氏は考えているのかもしれません。が……20歳近くになって、そんな事が主原因でしょうかねぇ? いや、細かい事ではそういう事はあるでしょう。しかし、暴走行為もそうなのでしょうか? 子どもの頃から自由に育てられて、だから20歳近くになって暴走行為をしているよ、という例は、私の見聞きした範囲ではあまりありそうに思えません(もし実例を、テレビや本からでもいいですから知っている方は教えて下さい)。むしろ、理不尽な親の態度が暴走行為に結びつくとか、愛情の不足が原因とか、そういう事の方が良くありそうに思います。 実際、暴走行為をしている若者たちに聞いたとして、「うちは子どもの頃から自由でさあ。バイクもいくらでも買ってもらえるし。だから、こうやって暴走してるんだよ」という答えが返ってくる可能性って、いかほどのもんなのでしょうか? それよりは、「うちに帰ったって、親子関係は冷えきってて、なんも楽しいことなんかねぇしよお」とか「うちには居場所がない。でも、こいつらとは信頼しあえる。だからコレに参加してる」とか、そういう答えの方が帰ってくる可能性は高いように思います。 私自身は暴走行為とか全然したことありませんし、不良モノのマンガとかも読まないですので、別に不良を美化したりはしていないと思うのですが、これは美化なのでしょうか??? いやホントに、良く分からないんですけど。 ……と、ここまで書いてきて思うのは、現代の日本の大人たちの、自己正当化の動きです。実はこれは、大人たちのこれまでの養育態度のうち、コミュニケーション面において多くのミスがあったのを、統制面でのミスの問題だと認識することによって、「もっと統制していかなければならない。我々は正しいのだ、ともっと自信を持つべきだ」という態度を醸成することになってしまっているのではないでしょうか? 同じ「ミスを認める」でも、「コミュニケーションがもっと必要だ」というのと、「統制がもっと必要だ」というのとでは、まったく逆の意味になってしまいます。前者は、「自分を改変していく必要性もあるかもしれない」という事を含むのに対し、後者は「自分は正しい。子どもをのみ、変える必要があるのだ」という事になる。 もちろん、実際に後者の対処法が必要な事例も多くあるでしょう。それは否定しませんが、それよりも前者の対処法が必要な事例の方が遙かに多くあるのではないのか? ということに関してはどう考えたらよいのでしょうか。 しかし実際、事は困難です。日本社会は、他の社会に比べて、コミュニケーション技術を磨かせず、従順であることのみを要求してきた社会です。このことは、例えば明治時代などにも多くの悲劇を生み出してきましたが、未だに、多くの悲劇をもたらしている。しかし一方で、この「従順性重視。コミュニケーション技術軽視」の日本社会でうまくやっていけている人は、その悲劇性を直視できず(って、それはしかし当たり前なのです。これを「当たり前だ」と理解する必要がある、というのが私が強く言いたいことの一つです)、「従順性を持てないお前が悪いのだ」と考え続ける。 彼らは、「従順性が大事なのに、それを充分にたたき込んでおかなかった。だからこんな問題が起きるのだ」という思考法から逃れられない。ほんの少し、「コミュニケーションも大事ではないのか?」と思ってくれればいいのですが……。私は別に、「従順性は全然必要ない」と思っているわけではありません。「従順性もある程度は必要だ。でも、コミュニケーションも必要、いや、コミュニケーションこそが重要ではないか」という程度に過ぎません。 もっとも、「コミュニケーション重視」の姿勢は、少しずつ日本社会でも広がりつつあります。問題は、「従順性重視」の圧力もまた、(現状への不満から)どんどん高まっている、という事です。 「従順性」を重視し、統制を強めようとする動きは、40代以上の多くの大人にとって、溜飲の下るものであるでしょう。しかし現状は、「溜飲を下げる」ことが主目的のための言いっぱなしになっているように思えます。それは本当に実のある解決法なのか? 困難でプライドを引き裂かれるような事であっても、解決法として実効があるなら、それを選択するべきなのではないか、という様な事はほとんど考慮されていない。 これもまた、日本社会の悪いところで、言うだけは言うが、実際に行動にはほとんど移さない面がある。合理的な考え方も苦手。みなが合意できることに雪崩を打って突き進むが、その責任は誰も取らない。 コメンテーターも、自分の言った事に責任など持ちません。私は、福留氏が、土石流が起こった時に、最初ゲストから「人間の力ではどうにもならない自然の力を見せつけられた気がしました」というコメントを貰って「その通りですね」と言っておきながら、最後に「日本政府は、このような事件が二度と起きないように万全の手を打つべきではないでしょうか」と言っているのを聞いたことがあります。 日本では、気持ちのいい言葉だけが上滑りしている。それが結局のところ、この件の私なりの結論と言えそうです。 |