思考の物置

道徳教育への批判



(道徳教育については詳しく書きたいのですが、とりあえず草稿だけ)

 つけさせるべきは「相手の立場に立つ」「相手の気持ちになる」というコミュニケーション技能(間主観的関係)であろう。しかし、これを子どもに要求することはほとんど不可能だ。なぜなら、大人の側がそもそも「相手(子ども)の立場に立つ」ことをしていないからである。

 「道徳を教え込むことができる」という大前提自体が大きな間違いだと思われる。道徳的心情(人に親切にする……など)の大前提は、「自分は周りの人から愛されている」そして「自分には生きる価値がある」という感覚の存在である。自分は周りの人から無視されており、自分には生きる価値がないのだということを周りの大人たちから事あるごとに自覚させられているような子どもに「道徳を教え込むことができる」わけがない。


 「道徳を教え込むことができる」と考えている限り、大人の側が子どもの気持ちに立ちはしないし、したがって本当の道徳的心情を「道徳教育」で身につけさせることは一般に困難だろう。

 大人たちは、自分たちには価値があるとすでに思っている。そして、その前提のもとに「ああ、道徳的だなあ」と自分たちが思う文章や映像を示して子どもに「どうだ、どうだ。道徳的であるべきじゃないか」と迫るのだが、子どもたちはまず自分たちに価値があるかどうか、という時点ですでに不安に陥ってあるのである。そのような子どもたちにそういう資料を示しても、何の意味があろうか。



 道徳の時間は「教授」の時間ではなく、「話し合い」の時間であるべきだ。
 なぜなら、一人一人の子どもがどれだけの道徳的心情を持つかという前提条件は大変異なっている。なぜそういう判断になるのか、という原因を洗い出す話し合いをし、現に存在している問題を解決するためのきっかけにすべきだ。

 道徳的な悪は、本人の心情からではなく、周りの対応から生じることの方がはるかに多い。だったら、本人に、本人に、本人に、道徳的心情を植え付けようとしてなんになろう。むしろ、「ある人を道徳的にしておこうと思ったら、まず周りの人間である自分たちがその人に対して、〜しなければならないでしょう」ということを学習させるべきなのだ。



 子どもに「他の人に思いやりの心を持つ」ように指導するというが、その指導する大人の方の心はいったいどうなのだろう。もし、「道徳の時間に子どもに指導する内容」のすべての事項を大人ができていたら(いや、この「(子どもへの)思いやりの心を持つ」ということだけでも十全にできていたら)、あるいは道徳教育なんぞはまったく不要なのではないか?


 「こんな良いことをすべきだ」「こんな悪いことをすべきでない」ばかりではなく、「なぜできないのか?」という事をシステム的に考えることが重要だ。道徳はその個人の意志によって涵養されるよりも、周りの環境、つまりシステムによって涵養され、また堕落させられるものである。


 「父母、祖父母に敬愛の念を深め」というが、そもそもその子どもの父母、祖父母が敬愛に値する人間なのかどうかをまったく無視した、空虚な目標というべきだ。父母、祖父母がその子に対して愛情深く接しているのか、それともその子が自殺したくなるほどにきつく、つらくあたっているか、わからないではないか。そもそももともと父母・祖父母が愛情深く接しているならばこのような目標は不要だし、愛情深く接していないならば、このような目標はばかげている。


 「節制」「言葉遣い」「軽率な行動をしない」などのことは、自分の中に「これがやりたい」という事があってこそ、その邪魔にはならないように、と気をつけるものではなかろうか。「これがやりたい」というものがまったくなく、ただなんとなく生きていて、エネルギーをもてあましかえって「ダルい」状態の中で、「節制」「言葉使い」「軽率な行動を慎め」などと言われて、ムカつかない子どもがいたら、そっちのほうがよほど異常である。大事なのは、「これがやりたい」という事を見つけさせることであり、そのために様々な経験を援助し、励ましていくという重大にして大変な責務が、大人の側にこそあるのだ。


 道徳の時間というのは、実は「子ども理解のための時間」という使い方?ができるのではないだろうか。結局のところ、子どもを理解しないことには、何の対策も打てないではないか。PSA(Problem Solving Approach)、「根本的な問題がどこにあるのかを理解してから、その対策を考える方法」を採るべきなのに、そもそも子どもに道徳をインドクトリネーションすることしか考えずに行っているのが現状ではないだろうか。


 教育の目標は「引き出す」ことであり、教育の本務は「支援」である。だとしたら、道徳教育の方法は、子どもが自然に道徳的になるように「支援」することではないだろうか。