思考の物置

道徳教育が道徳を生むのではなく、
  競争原理が道徳を生む



.1 はじめに

 ここでは、自分の利益だけを追求していると、道徳的になる……(道徳教育なしでも、道徳的性質は発生してくる)という一見非常に逆説的(あり得なさそう)な仮説について扱います。

 この仮説(「互恵的利他行動理論」と呼ぶことにします)の骨子が発表されたのは、1971年、アメリカの生物学者ロバート・トリヴァースによってでした。1971年と言えば、私が生まれた年ではないか……。しかしこのトリヴァース、ドラッグ漬けだったらしいとかって書いてあって、なんか私が学説上尊敬する人ってそんな破綻者ばっかりやな……*。

*性格破綻者のJ・J・ルソーとか、性的破綻者?の宮台真司とか、ノイローゼから餓死した数学者クルト・ゲーデルとか、敵作りまくりの科学哲学者K・R・ポパーとか。


 まぁともかく、この仮説は生物学、というか、進化論的な話なので、「進化論は間違っている!」とか「人間と他の生物の間には大きな質的違いがある」と考える人には、受け入れられない話ということになるかもしれません(実存主義者とかネ)。

 また当然、自然淘汰(適者生存)が起こる、という事も前提です。「自然淘汰を認めることになれば、それは弱者切り捨て論ではないかっ」と思われるかもしれませんが、ご心配なく。「自然淘汰が、弱者を救おうとする精神(というか個体)を生む」という事が、これから述べようとすることなのですから(ただし、弱者を切り捨てようとする個体を絶滅させるところまではいきませんので、あまり期待されても困りますけど)。




.2 すべての生物は自分優先である

 いちおーそういう所はクリアしていると前提いたしまして。

 生物の世界では、個体があたかも種全体のために行動するかのような行動をとるものがいることが知られていました。

 例えば、働き蜂や働き蟻などは、自分の子孫を残さずに、女王蜂/蟻が生む自分の姉妹兄弟のために一生働き続けて生涯を終えます。

 あるいは、鳥の群れで最初に警戒音を発する個体は、そのために却って捕食者からは見つかりやすくなります。

 それから特に有名なのはレミングの例で、レミングが増えすぎると種保存のために集団自殺が起こる……と言われていました。


 ところがこれら「種全体の為に行動する」という考え方は、間違いであったことが今では分かっています(1970年代末)。なぜ間違いであったか分かるというと、そう考えると説明できない例が出てくるからですね(^_^; 逆に、「個体のために行動する」と考えた方が、それらの行動を矛盾なく説明できるので、どうも「すべての生物は自分優先である」らしいと考えた方がよいのだ、という事が分かってきたわけです。

 「種全体の為に行動する」という説(群淘汰説)にはどんな難があるかというと、こういう風なことです。

 種全体の為に行動する善?の個体が自己犠牲で死んでいく間、自分の利益のためにしか行動しない悪?の個体は生き残ります。これがくり返されると、結果として善の個体が死に絶えて悪の個体で群れが占められることになってしまいます。

 しかしここで仮に、「善の個体」ばかりの群れと、「悪の個体」ばかりの群れがあったとしましょう。すると、「善の個体」ばかりの群れは、自己犠牲する個体がいるので何らかの危機的状況においても群れ全体が生き残りやすいが、「悪の個体」ばかりの群れは何らかの危機的状況で絶滅してしまうかもしれない様に見えます。

 ところがこれも成功しない説明で、「善の個体」ばかりの群れに「悪の個体」が一匹でも潜り込んだら、最終的には「悪の個体」の有利に働いて「善の個体」は死に絶えてしまいます。また、「善の個体」ばかりの群れが、完璧に隔離された場所に住んでいるとしても、その中に自己利益を優先する個体が突然変異で生じてきたら、それで終わりなわけです。

 人間社会でも同じで、道徳的行為が全体の為で、善の個体にとって損失でしかないとしたならば、その道徳的行為を「ただ乗り」する悪の個体の増加を防ぐことは、道徳教育によるしかない、という事になります。だから道徳教育が大事だ、という論になるわけですが、ところが、道徳教育などしているとは思えない生物(昆虫とかほ乳類)にも、利他的行動が見られる例がいくつかある。これはなぜなのか?

 ここで、「自分(個体)優先」の生物界で、「利他的行動が進化によって生じる」(のではないか)という見方が現れてくるわけです。


 なお、レミングの例は、増えすぎてそこでは生きていけなくなった個体たちが、そよへ集団移住しようとする時に、一部のものが溺れて死んでしまうに過ぎず、大部分のものは移住に成功することが分かってきました。




.3 協力行動の進化(ゲーム理論)