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テオドラは西暦500年ごろ、コンスタンティノープルで熊の見せ物をするサーカスの団長の次女として生まれました。三人姉妹の真ん中です。年頃になるとテオドラも舞台に立ちましたが、琴も笛も踊りもあんまりうまくなく、しかし機転のきく頭の良いところがあったので、面白いセリフや動作で笑いをとるコミカルな女優みたいなことをしていたとか。『ローマ帝国衰亡史』にはこうあります。 この喜劇の子役が頬を膨らませて自分の身の不幸をおどけた声色と身振りで嘆くたびに、コンスタンティノポリスの劇場全体は笑いと喝采でどよめいた。 テオドラの容姿については端正、繊細な美人で、非常に魅力的であったという事で史料は一致しています。さらに加えれば色は白くて背は小さめ、目つきは鋭く生き生きしていたそうです。 さて、この時代女優というのは、はだかを見せたり売春をしたりするものであったという事で、テオドラもそうしていました。テオドラに対して悪意ふんぷんのプロコピオスの『秘史』によると―― テオドラは劇場でしばしば着ているものを脱ぎ、裸で人々の間を歩き回った。もっとも素っ裸ではなく、小さな布きれは下腹部にまとっていたが、裸を見られるのが恥ずかしいからというわけではなく、劇場では全裸が禁じられていたからにすぎない。その格好のままで彼女はあお向けに横たわる。すると何人かの奴隷が現れて、それがこれらの奴隷の仕事なのだが、テオドラの秘部に麦粒をまく。そこへこれまたそのために飼ってあるガチョウが出てきて、くちばしで麦を一粒ずつついばんでいく。やがて立ち上がったテオドラは、恥ずかしげな様子はこれっぽっちも見せず、こんな芸当をしたことを自慢するかのようであった。 売春婦としては、安物の娼婦として一晩に最高30人も客をとり、下品な女優、怪しげな踊り子、淫らな娼婦、という事でテオドラの悪名は高くなり、真面目な人たちは市場で彼女を見かけると醜聞に巻き込まれるのを恐れるかのように回れ右をした……とギボンの『ローマ帝国衰亡史』なんかにも書いてありますが、そういう真面目な人がなぜテオドラの顔を判別できるほど彼女を知っていたのか、という辺りにそこはかとなく疑問を感じたりもして……。 まあそれはともかく、そうこうするうちにテオドラは(中絶に失敗して?)男の子を一人産んだ、というのは確実な様です。男の子は、テオドラの手元から離れて育てられました。他に女の子も生んだ、という説もありますが、これは定かではない。 子どもを産んでからも女優を続けていたテオドラでしたが、そろそろ女優稼業から足を洗おうと、ある高級官僚がリビアへ赴任するのについていき、妻の座に納まろうとした様です。ところが平凡な生活が性に合わなかったのか、喧嘩別れ。見知らぬ土地でほっぽり出されたテオドラでしたが、身体ひとつを元手に怪しげな商売をしながらたくましく生き抜き、中近東各地をまわりながらコンスタンティノープルに戻ってきました。そして彼女は、時の皇帝の甥で、政治の実権を握っていたユスティニアヌスと運命の出会いをすることになるのです。 ――ところが、ユスティニアヌスとテオドラがどういう風に出会い、どういう経緯で愛し合う様になったのか、まったくもって不明―― ともかく、テオドラは二十代前半、ユスティニアヌスは四十前で、ユスティニアヌスはテオドラに惚れ込んで正式の妻にしたいと考えました。ところがここに障害が。一つはその時の皇后の反対で、もう一つは元老院議員と(卑しい)踊り子との結婚を禁止した法律でした。 皇后が死ぬとユスティニアヌスは皇帝に法律の改正を申し入れ、523年までには新しい法が発布されて「以前に劇場で身を売っていた不幸な女性たちにも『栄光ある悔悟』が許される」ことになりました。まさにテオドラのために出されたこの法律によって、彼女は次期皇帝候補者の妻となったのです。 527年、ついにユスティニアヌスはビザンツ帝国の皇帝となり、皇帝ユスティニアヌスと皇妃テオドラは競馬場での皇帝即位式で民衆の歓呼を受けました。その競馬場でテオドラは若い頃、何らかのアトラクションに出演していた事があるかもしれない、そういう場でした。テオドラはこの時どういう思いでいた事でしょう。 さてさて、ユスティニアヌス帝は生活も質素(彼は田舎農民の出だった)で、睡眠時間を切りつめて精力的に政務をこなしていたのですが、それと対照的にテオドラの生活は非常に優雅なものでした。派手好きの彼女のためにユスティニアヌスは数多くの豪華な離宮を建てましたが、どの宮殿にいる時もテオドラはゆっくり入浴して、念入りなお肌の保護、とりどりの料理を食べ、たっぷり休息、充分な睡眠。温泉行きを好み、四千人のお供を従えた華麗な行列で小アジアの温泉へ出かけたりもしたとか。それらは、美容と健康を保つためだったのでしょう。 また一方で、テオドラは強く政治力を行使しました。といっても、別に専横的にそうしたというよりは、夫ユスティニアヌス自身が、テオドラを良きパートナーとして考えていたからである様です。もっとも、気さくな性格であったらしい皇帝ユスティニアヌスに対して、テオドラは勝ち気、悪く言えばでしゃばりではあった様で、反フェミニズム的思想を持つ前述のプロコピオスは、それが気に入らなくてテオドラの悪口を書くわけです。 実際の所、テオドラは国家の外交交渉を自らおこなったり、帝国財務長官を追放したり、ローマ教皇の罷免、追放もやったとか。 そしてまたテオドラは、若い頃の身の上がそうさせたものでしょう、不幸な女性たちのために尽くし、多くの私費を投じもしました。ユスティニアヌスと共に、貧しい家の娘を買い取って売春を強制する女衒の売春宿を一掃し、テオドラは娘たちが負っていた借金を払ってやったりもしました。また、娼婦たちの更正施設として女子修道院を設立し、売春禁止法を施行。もっとも、この件に関してプロコピオスは、「テオドラが売春婦たちを強制的に修道院に閉じこめたので、女たちはひどくいやがり、何人かは夜に塀を飛び越えて逃げ出した」と書いていますが、どう判断したものか良く分かりません。 また、夫を失った女性の再婚、あるいは夫に捨てられた妻の救済にも力を貸し、さらに、貧しい人々のための施設や、病院なども私費によって作りました。 さて、532年1月。市民の反乱、「ニカの乱」が起こります。この原因は、後世「ユスティニアヌスの再征服」として有名なユスティニアヌス帝の征服事業の準備のための増税あるいは市民向けの歳出のカットにありました。自分たちの権利である「パンとサーカス」が抑えられ、税が増やされていく事に不満を抱いた民衆は、競馬場で応援団員の音頭に合わせて「ニカ!(勝利せよ!)」と叫んで暴動を起こしたのです。 暴動は全市に広がり、市総督の館は破壊され、聖ソフィア教会は焼け落ち、宮殿の門にも火が放たれました。民衆の怒りがまったくおさまらず、激しいままであるのを見たユスティニアヌス帝は、民衆の前に出て、自分に非がある事を詫び、民衆の要求を完全に聞き入れる、と宣言しました。――というのは、20年前、アナスタシウス帝が暴動に際してその様にしたところ、心を打たれた民衆は矛を収め、家路についたのですが、いったん事態を収拾するやアナスタシウス帝は手のひらを返した様に暴動の首謀者を逮捕、処罰した、という事があったのです。恐らくユスティニアヌス帝も同じ様にしようと考えていたのでしょう。 ところが、演技力が足りなかったのか、民衆の不満がはるかに強かったのか、あるいは民衆も20年前の事が頭にあったのか、ユスティニアヌスは「嘘つき!」「豚!」と野次られて、引き上げねばなりませんでした。 民衆と、反ユスティニアヌス派の元老院議員はユスティニアヌスに代わる対立皇帝を担ぎ上げ、皇帝歓呼をおこなったりして、事態はいよいよどうしようもないところまで来てしまいました。宮殿に帰ったユスティニアヌスは、宮廷の主だった人々と対策を協議し、ベリサリウス将軍による対立皇帝捕縛作戦に望みを託しますがこれも失敗。絶望したユスティニアヌスは逃亡を決意、船を用意し、荷物や財宝を積み込む様に命令を下します。 ところがここで、皇妃テオドラが、浮き足だった人々を強い口調で押しとどめたのです。 「たとえそれによって命ながらえるとしても、今は逃げる時ではありません。この世に生まれた者は死ぬのが定めとはいえ、皇帝であった者が亡命者となるのは耐えられますまい。私はこの紫の衣を脱ぎたくはありません。出会う人々が私に向かって『皇后陛下』と呼びかけないような日々を送るのはごめんです。生き延びたいとお思いでしたら、陛下、難しいことではありません。お金もたっぷりあります。目の前は海、船も用意されています。けれどもお考えください。そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬより良かったといえるようなものでしょうか。私はいにしえの言葉が正しいと思います。『帝衣は最高の死装束である』と。」(プロコピオス『戦史』第1巻24章) ……と、ホントにこう言ったのかどうか、実は全然定かではありません。最後の部分にギリシア古典の引用があるのは、テオドラの経歴と考え合わせるとかなり疑問です。恐らくはプロコピオスの創作でしょう。 しかし、テオドラが夫ユスティニアヌスに対して、踏みとどまるべきであると助言したというのは恐らく事実でしょう。ユスティニアヌス帝が教養人的な人物であったのに対して、テオドラは人生を体当たりでたくましく生き抜いてきました。ユスティニアヌスは絶望的な状況において常識的な判断から逃亡を決意しましたが、テオドラはむしろ、絶望的な状況に負けない、芯の強さを持っていたのだと思います。 テオドラの言葉に励まされて、ユスティニアヌス帝は踏みとどまる決心をしました。ベリサリウス将軍は新たな攻撃案を立案します。今度の計画は、競馬場に集まっている民衆全部を敵と見なし、全面的な攻撃をかけるというものでした。 ベリサリウスの軍が競馬場に突入し、そこは阿鼻叫喚の地獄と化しました。民衆は恐怖に逃げまどい、30000人の市民が虐殺されたといいます。また、捕らえられた対立皇帝の処分をユスティニアヌス帝は逡巡したのに対し、テオドラはあくまで処刑を主張し、結局対立皇帝は処刑されました。 そして、ユスティニアヌス帝はビザンツ帝国の皇帝専制政治を強化し、いにしえの「ローマ帝国」の版図を回復すべく、再征服事業に着手するのです(〜554年)。 ニカの乱から16年後、548年6月にテオドラは死去しました。死因は癌であったと推定されています。ユスティニアヌス帝は、かえがえのない妻を失って悲嘆に暮れました。二人の間には一人だけ女の子が生まれましたが、幼くして死んでいました。 参考文献:『ビザンツ皇妃列伝』井上浩一 筑摩書房 『生き残った帝国ビザンティン』井上浩一 講談社現代新書 『ローマ帝国衰亡史』ギボン 筑摩書房 |