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スタール夫人




    熱情、それは美への愛と、魂の高揚と、献身の喜びが、偉大さと安
    らかさをあわせ持つ感情のうちで結びつき、ひとつになったもの。

    この言葉の意味は、ギリシア人にあっては、ひときわ崇高な定義を
    帯びたものとなる。

    すなわち、熱情とは我らが内なる神を意味するから。


                  ──スタール夫人『ドイツ論』4-10




 スタール夫人。フルネームはアンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・バロン・ド・タール・ホルスタイン。1766-1817。スイスの大銀行家、フランスの財政総監をつとめたネッケルの娘。フランスの女流作家・批評家。ドイツ・ロマン主義の熱烈な信奉者で、シャトーブリアンと並ぶフランス・ロマン主義の先駆者。

 パリで生まれ、少女時代から才気煥発、まれにみる才知と雄弁をほこり、非常に頭が切れ、母親のサロンに集まる百科全書派の人々らの進歩的な自由主義思想に親しんで成長した。が、おしいことにあまり美人ではなく、性格に柔らかみがなく、女性としての魅力に欠けていた。1786年、20歳の時、パリ在駐のスウェーデン大使スタール=ホルスタイン男爵と結婚、しかし2年後に別居し、文筆活動に入る。ポッツォ・ディ・ボルゴという人物などは、「私は気がめいったとき、少なくともスタール夫人の夫ではないと考えて、自らをなぐさめた」とまで言っているので、ホルスタイン男爵のあんどの気持ちがしのばれる。

 フランス革命では当初革命支持の姿勢をしめしたが、恐怖政治時代にその穏健な立憲君主主義をうとまれて、父とともにスイスのレマン湖畔コペにしりぞいた。その後パリに帰って、そのころ北イタリアを転戦してはなばなしく凱旋した若きボナパルト将軍に異常なまでの熱をあげる。「二人の天才が結ばれることはフランスの国益に合致する」とボナパルト将軍の屋敷に押し掛け、ボナパルトが入浴中というのに上がり込み、「天才に性差は関係ない」と言い放った。

 しかしボナパルトにとって、スタール夫人の様な女性は非常に苦手なタイプであった。また彼は、スタール夫人の父や友人からなされる自分への批判が、スタール夫人の入れ知恵であるという思いこみがあったらしい。

 しかしそれよりもよほど風変わりなのは、スタール夫人の方で「ボナパルトも自分の天才を評価し、賛美するに違いない」と決めてかかっていたことである。タレイランに、「私は自分を賢いと思っているが、ボナパルトは私ほど賢いでしょうか?」と真顔でたずね、「あなたほど厚かましくはありますまい」と返されながら、その意味が良く分からなかった。

 彼女は何故自分ほどの者がボナパルトに無視されるのか、まるで思い当たらなかった。デコルテ(肩や背をあらわにし、胸元が見える様にした襟刳の夜会服)姿のスタール夫人を見て、ボナパルトは「おや、あなたは母乳で子育てをなさったようですな……」と言ったという。ボナパルトへの思い入れが激しかっただけに、そでにされたことへの恨みも深く、あこがれはたちまち憎しみに変わり、偏執的と言える程にボナパルトへの反抗にのめり込んだ。

 その対立は1801年、ナポレオンが政教協約によってローマ法王と和解してカトリックの復活をうながした事によって、プロテスタントのスタール夫人にとって決定的となった。スタール夫人は反体制的、自由主義的、カトリックの迷信性をやり玉に挙げた『デルフィーヌ』を出版し、ナポレオンを激怒させる。しかえしにナポレオンはスタール夫人をパリから追放したが、これがナポレオンの大きな失策であったことは、あとでナポレオンみずからが認める事になる。

 スタール夫人は「あの男は私を怖れている。そこに私のうれしさとほこりと恐怖がある」と屈折した心情をかいま見せつつ、万能の権力者から弾圧を受けた殉教者という冠をいただいて、反ナポレオンキャンペーンの旅に出る。まずベルリンで、ナポレオンが大嫌いで後に夫を叱咤して対仏戦争にふみきらせたプロイセン王妃マリア・ルイーゼに丁重に迎えられる。次に訪れたナポリでも王妃マリア・カロリーナとナポレオン憎しの一念で意気投合した。

 ところがこの間に新作『コリンヌ』を書き上げ、これがまたナポレオンの気に入ると決めてかかって皇帝に贈呈。「恋に生き、自分を理解する男性にめぐりあえぬ、多感な女性の物語」をタレイランに朗読させた皇帝は、30分でやめさせた。ただし、ナポレオンがこの作品を気に入らなかった理由は、自分のことが一言も書いておらず、イギリス人やイギリス艦隊の事がほめてあったかららしい。

 その後スタール夫人はスイスのコペでサロン活動に熱中する。このはなやかなサロンは「欧州思想界の聖域」ともてはやされたが、ナポレオンにとっては不満分子の巣窟であった。当時フランスの占領下にあったドイツの文壇や哲学をたたえる『ドイツ論』を書いて、スタール夫人はまたナポレオンの怒りを買った。

 1812年にはロシア遠征におもむくナポレオン軍のあとからロシアへ向かい、ペテルスブルグでアレクサンドル1世に拝謁し、大いに反ナポレオンの情熱を披露した。その後もスウェーデン、イギリスで反ナポレオンキャンペーンを続け、ナポレオンをして、「スタール女史はフランスにおいてよりも、その放浪中により多くの余の敵を作ってしまった。余は間違っていた。」と言わせしめた。だがナポレオンの反省は遅すぎた。

 ナポレオン没落の日。しかしスタール夫人は失望する。「私はボナパルトが勝って、そして殺されて欲しかった」。それは、フランスにおける共和政の確立を夢見たスタール夫人の夢であった。しかしその夢はウィーン体制という超反動体制の確立によってかえってかなわぬものとなってしまったのである。

 フランスに帰国したスタール夫人はしかし、「ナポレオンにたてついたあまり、ナポレオンに似てしまった。反対意見に狭量となり、議論では横柄となり、優越心から他人を傷つけることを平気で口にするようになった」(ディーバック)。闘争の相手を失って人生のはりあいをなくした彼女は、アヘンを常用する様になり、くずれていく。アヘンと不眠症、長年のヒステリー症状などが夫人の身体をむしばんだ。

 死の床で、「眠れますか」と聞かれ、「ぐっすりよ。太った農婦さながらの睡魔に重くのしかかられたみたいに。」と答えたのを最後の言葉にして、脳溢血からマヒ状態におちいり、眠る様に息をひきとった。ナポレオンの没落からわずか2年後、1817年7月18日、享年51歳。ナポレオンの死より4年早かったが、死んだ時の年齢は同じであった。


 彼女の文学史上の功績は大きく、美の普遍性をとなえる古典主義に対して、時代と国によってさまざまな美がありうることを説き、フランス・ロマン主義の理論的土台を作った。彼女は社会的・歴史的視点を導入し、近代文芸批評の出発点となり、また、ロマン主義的な自我の解放を女性の側から主張し、フェミニズム文学の先駆ともなった。


 「悲劇的だったのはナポレオンが女史の文学的感性をいささかも理解せず、女史の方でもナポレオンの政治的感覚に全く鈍感だったことである。二人は非生産的な抗争を続けて、エネルギーの浪費をしただけであり、その行き違いがかえって女史の評判を高めてしまったのは奇妙な結果であった」(『反ナポレオン考』両角良彦)



 参考文献

 『反ナポレオン考』両角良彦 朝日選書
 『コンサイス外国人名事典』三省堂
 『フランス名句辞典』大修館書店
 『新スタンダード仏和辞典』大修館書店
 『最期のことば』ジョナサン・グリーン編 教養文庫
 『世界「人物」総覧』新人物往来社
 『Encarta97 Encyclopedia』Microsoft
 『クロニック世界全史』講談社