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ローマ帝国の衰亡



 ……以下の原稿は、『Game Journal』誌にローマ帝国衰亡史の原稿を頼まれた時に、最初に書いていたものです。ところが一時、この原稿をどこにやったか分からなくなってしまい、新たに書き直したのが、『Game Journal』誌に掲載されたものでした。その後この原稿が出てきたので、ここに置いておくものです。掲載原稿とはまた違った味がありますが、書きかけだったので、尻切れトンボで終わっております。ご了承下さい。



1.序

 紀元前146年、それ以後のローマの隆盛を決定づける、ローマによるカルタゴ市の徹底破壊の際、ローマ軍の司令官小スキピオは、こう嘆いたという。

「アッシリア倒れ、ペルシアもマケドニアも滅び、今また、カルタゴも焦土と化す。ああ、次に滅びるのは必ずやローマであろう。」

 しかしローマは、その後も多くの国を滅ぼしながら、紀元476年まで622年(東ローマ帝国も考えれば紀元1453年まで1599年!)存続することになる。

 では、小スキピオの言葉は全く間違っていたのだろうか? いや、そうではない。実は、小スキピオがカルタゴを滅ぼしたことによって、ローマの衰亡は始まったのである(という事にして以下の叙述を進める)。



2.都市国家ローマの隆盛

 ローマはそもそも、とにかく戦争ばかりしていた。ローマでは、ヤヌス神殿の門を、戦争中は開けて、平和な時には閉める事になっていたが、紀元前673年から紀元前30年までの間に、門を閉めたのは一度しかなかったという。

 戦争こそが彼らの使命であり、軍隊こそが彼らの骨であり、肉であり、血であった。何らの優れた文化も、産業も持たなかったローマ人は、自らの栄誉と収入の為に、絶えず戦いと敵を求めた。だが、ローマ軍は格別強かったわけではない。初期ローマ史は負け戦の記録に溢れているし、紀元前390年にはローマ市はガリア人に蹂躙されてほとんどすべてを失った。そしてまた、そこからイタリア半島を征服するに至るだけでも、150年近くかかっているのである。アレクサンドロス大王ならば、イタリア半島ごときは2年程度で征服したかもしれない(よくぞ大王は西進しないでいてくれたものである)。

 しかし、その様な状況こそが、ローマを興隆させる原因となった。他を圧して強いわけではなく、決定的な勝利を得る事が出来ない――つまり、いつも必死で戦っていなければ負けて滅びてしまう――状況において、ローマ人は常に戦争の為に自らの神経をとぎすませていた。よって、堕落はほとんどあり得なかった。ローマ人はあらゆる困苦に耐えて勝利を目指し、敗北を拒否した。常に敵の長所を取り入れ、停滞という事を知らなかった。ローマの為には、司令官も兵士達も、自らを犠牲にして平気であった。

 そしてついに、ローマはその「小さなことからこつこつと」方式によって、前246年までにはほぼイタリア半島を制圧し、続けてカルタゴを敵に設定する。前218年からのハンニバルの挑戦は真に恐るべきものであったが、なにしろ逆境においてこそ強いのがローマである。ハンニバルは、なぜ自分が負けざるを得なかったのか、理解出来なかったであろう。逆説的に言えば、敵の強さに合わせて強くなる――それもほんの少し相手を上回るぐらいに――のが、ローマの真骨頂であったのだ。

 続いてローマは、マケドニアやシリアと戦い、前168年にはマケドニアを滅ぼしてギリシアを征服するが、ここで困ったことが起こってしまった。戦いにあけくれていて「文化」というものを知らない野蛮なローマ人は、征服したギリシアの華麗な文化に征服されてしまいそうになったのである。同時に、征服した土地から得られる富は大きなものとなり、社会の階層化は進んだ。古き良きローマ、ローマ人が「祖先の遺風」と呼んだローマの最大の強みが崩れつつあったのである。

 この様な事態に対して、大カトーは、ローマ人の目を戦争に向けさせようとした。ローマは戦争をしていなければならない。「なお、カルタゴは滅ぼさねばならない!」 この言葉を、大カトーはしつこくしつこくしつこくしつこくしつこく繰り返した。元老院主席のコルネリウス・ナシカ・コルクルムは、「敵としてのカルタゴを残しておかねばならない。故に私はカルタゴ存すべしと思う。」と主張したが、大カトーの言い分が勝った。カルタゴは、小スキピオ(皮肉な事に、彼はコルネリウス家の人間である――養子であるが)によって滅ぼされる。

 ローマは軍隊によって興隆した。そして我々は、ローマが軍隊によって滅びるのを見るであろう。



3.帝政への転換

 ユリウス・カエサルやアウグストゥスが活躍した「内乱の百年」は、ローマが既にそこで滅んだかもしれない、という結果を、後々にまで引き延ばす為のものだった、と見る事も出来る。

 当時ローマが抱えていたのは、軍隊の統率者は誰か、あるいは、軍隊が忠誠を尽くすのは何か、という問題であった。ローマが大きくなってくると、兵士たちは、ローマに恩恵を受けている、というよりは、個々の将軍に恩恵を受けている、という事になってくる。兵士達の行動原理は、「ローマの為に」ではなく、「我らが将軍の為に」という事になった。しかしそれでは、ローマは内乱を続けざるを得ない。名目上忠誠の対象はローマ(S.P.Q.R.「ローマ元老院と人民」)ではあるが、将軍たちは自己の勢力を第一に考えるであろうし、各軍団の兵士たちも同様である。もしローマという国家の枠組みを維持するなら、軍隊の忠誠の対象は一人の将軍に集中されなければならない――帝政はこの為に開かれた。

 この過程で失敗すれば、その時点でローマは滅んだかもしれない。しかし、この時ローマは内乱をしつつ外敵と戦ってなおかつ領土を拡張するだけの国力の余裕、あるいは敵の弱さ、に恵まれていたし、また、カエサルはその天才によって、アウグストゥスはその慎重さによって、帝政を可能にしたのだった(塩野七生女史は、現代日本はこの「内乱の百年」に相当する激変期を迎えており、変革の為にカエサルが必要だと見る)。



4.軍隊と皇帝

 ところがローマの軍隊に関する致命的な変化は、アウグストゥスの次の皇帝であるティベリウスの時代に早くも生じてしまった。彼は皇帝になりたくなかったのだが、皇帝にならざるを得なかった人物である。その為、皇帝であるが故に生じるイヤな事に耐えられず、隠棲して、唯一信頼する親衛隊長セイアヌスに実質上実権を与えてしまったのだ。セイアヌスは後に処刑されるが、親衛隊の実権は強大化する。

 第3代皇帝カリギュラを殺した親衛隊は、精神薄弱のクラウディウスを帝位に就けた。第5代皇帝ネロが自殺せざるを得なかったのは、親衛隊がネロを見捨てたからである。ネロのあと帝位についたガルバは、ネロから受けた利益のすべてを国家に返上する命令を出して、利益を返したくない親衛隊に殺される事になった。

 そして、軍隊が皇帝を作る様になる。ガルバの死後親衛隊を手なずけて皇帝となっていたオトーは、上下ゲルマニア州の軍隊によって皇帝に推戴されたウィテルリウスによって破られた。そのウィテルリウスも、東方諸州の軍隊から皇帝に推されたウェスパシアヌスに敗れる。

 その後ウェスパシアヌスとその二人の息子が帝位を受け持ち、次男のドミティアヌスは親衛隊によって殺されたのであったが、その次には、帝位が有徳な人物へ養子相続で受け継がれるという五賢帝の時代を迎える。中でもトラヤヌス帝は、軍隊からの支持も絶大、元老院ともよく協調、ローマ帝国の最大版図を実現し、「最善の元首」の称号を贈られた。このトラヤヌス帝の時代が、ローマが最も光り輝いた時期であっただろう。『ローマ帝国衰亡史』の著者ギボンは、この五賢帝の時代を「人類史上の最も幸福な時代」とした。しかし、絶頂まで上りつめれば、後は落ちるしかないという事である。ギボンは、『衰亡史』の叙述をトラヤヌス帝から始める。


5.衰亡の始まり

 トラヤヌス帝の次の皇帝ハドリアヌスの時代には、ブリタニアにハドリアヌスの城壁が築かれる。その次々代のマルクス・アウレリウス帝は、ゲルマン人の侵入を防ぐのに一生を費やした。そしてまた、応急措置としてとはいえ、ゲルマン人を防ぐ為に、ローマ帝国内のゲルマン人をローマ軍兵士として登用せざるを得なくなった。

 しかし本当にひどい時代が始まるのは、「親ばか」マルクス・アウレリウスが実子のコンモドゥスに帝位を譲ってからである。コンモドゥスは久しぶりの暴君であった。自分の享楽の為にゲルマン人と破滅的な和約を結んでローマに引き上げ、恐怖政治を親衛隊長クレアンドロスに委ねる。親衛隊の横暴に呻吟した民衆が、恐怖にかられてクレアンドロスの首を要求すると、コンモドゥスはあっさりクレアンドロスの首をはね、後任にラエトゥスを指名した。しかしラエトゥスとしては、皇帝に気に入られても破滅、民衆に気に入られても破滅である。そこで、彼は皇帝を殺す事にした。

 その次は、親衛隊から推挙されてペルティナクスという元老院議員が皇帝となったが、ペルティナクスは軍紀を引き締めようとして親衛隊に殺された。その次に起こったのは、空前絶後の「帝位の競売」である。親衛隊は、自分たちに最も多いボーナスを出す人物を帝位に就けることを宣言したのである。もはやめちゃくちゃであった。帝位は、ディディウス・ユリアヌスという銀行家が競り落としたが、金持ちである事以外何も取り柄がなかったので、新皇帝を不服とする諸属州の軍隊のうち、上パンノニアのセプティミウス・セウェルスに攻められて殺された。

 セプティミウス・セウェルスは、乱れきったローマの親衛隊(イタリア人だけから成っていた)を解体し、連れてきた属州出身の兵士達からなる親衛隊を組織したが、これがまた、ローマ軍制上の大きな変革となった。既に皇帝も、ローマ軍の主力もイタリア人ではなくなっていたが、ここに親衛隊もイタリア人ではなくなったのである。