←その他の歴史記事へ
ジャン "我らがロラン”ランヌ ランヌは恐れを知らない戦士でありながら、時と場合によっては冷静になることも出来る例外的な指揮官であった。勇敢さではネイ、ミュラと並び称せられ、またその端正な容貌から、中世武勲詩の英雄にちなんで「我らがロラン」とあだ名された。 1800年、第二次イタリア遠征中、モンテベロに於いて、砲を有さない1万の部隊でもって、圧倒的に優勢な、砲100門を有する1万8千の知将オット率いるオーストリア軍と戦い、敵を完全に敗走させた。オット軍の戦死は3千、捕虜6千。まさに一方的な戦いであった。この戦いの抜群の功績によりのちにモンテベロ公爵の称号を受ける。この戦いは気力で勝利したと言われ、後にナポレオンはランヌの事を「勇気の方がほとんど精神力よりまさっている」と評した。 1804年、元帥となる。「将校たるもの、戦場では、兵士の目に婚礼の日の花婿の如く映らなければならない。」と語り、正装で戦場を駆け巡り、名誉の負傷は数知れない。しかし、彼は次第に殺戮と破壊を嫌う様になった。1809年のアスペルン・エスリンクの戦いの際、戦場の視察中、同行していた親友サン・ティレール将軍が流れ弾によって即死。抑えていた感情が爆発し、ランヌは死体から目をそむけてうずくまり、顔を手で覆った彼の膝を弾丸が砕いた。軍医長ラレイがその場で片脚を切断し、駆けつけたナポレオンが担架のそばにひざまずいて元帥を泣きながら抱き締めたので、その血が白いカシミアのチョッキにたちまち染み渡った。「生きてくれ、君、生きてくれよ!」と繰り返す皇帝の言葉も空しく、後送されたランヌは6日後の5月31日午前5時、ベッドでマルボ男爵の肩にもたれ掛かったまま、40歳の生涯を閉じた。洗濯屋の小僧から元帥にまでのぼりつめた軍人の痛ましい最期であった。 ランヌ元帥の最後の言葉に就いて、『人間最後の言葉』は次の様に書いています。 エスリングで負傷し、九日後(六日後でなく)、ナポレオンに次の様に言って死んだ。 「神の名において申し上げますが、陛下、フランスのために、平和を築いて下さい。私は死にます。」 しかし、『週刊朝日百科 世界の歴史103』では、「六日間苦痛に悶え、呻きながら絶命した。」。 『ナポレオン 下』(長塚隆二)では、ナポレオンはランヌの最後に立ち会えていない。 ランヌが息を引き取った直後にやってきたナポレオンはベッドに駆け寄るなり、遺体にとりすがって言った。「フランスにとっても私にとってもこれほどの損失があるだろうか!」 |