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ローマ帝国衰亡史

兵士達の帝国ローマ


1.遅咲きのローマ

 古代ローマ*1の歴史を、他の世界史上の大帝国の歴史と比較して考えてみた時に、非常に特徴的な事がいくつかある。

 アケメネス朝ペルシア帝国、アレクサンドロス大王の帝国、大唐帝国、モンゴル大帝国、ナポレオン帝国、あるいは第三帝国……。世界史上多くの帝国は、その王や皇帝が大体1世代、多くても3世代くらいで覇業を達成し、1世代で滅びるか、あるいはせいぜい十数世代で滅びている。

 ところが古代ローマは全くそうではないのである。前600年頃(伝説では前753年)にローマ市と呼べる町が出来てから、イタリア半島の征服が完了するまで350年かかっており、地中海沿岸の征服が完了するのはその更に200年以上後である。ローマ帝国の最大版図の実現はその150年後であり、そこから350年かけて西ローマ帝国は崩壊する*2。つまりローマは非常にゆっくりと興隆し、ゆっくりと没落したのである。

 そもそも、古代ローマは一人の最高権力者が支配する統治体制とは言えない。共和政ローマにおいては勿論、王政・帝政ローマでも王や皇帝は、かなりの程度、民衆・軍隊・元老院などの支持を受けねばならなかった。その意味で、ローマの中心にいたのは最高権力者ではない。寧ろ、一貫して述べるならば、「兵士達の帝国」と呼べるものがローマに他ならない、とも言える。

 そしてそれが恐らく、世界史の中でローマ史を際だたせる原因となっており、また、その興隆と衰退の原因でもあるのである。



2.興隆と帝政の開始

 ローマ市はそもそも、良く言って「新しい希望に燃えた若者達」、悪く言って「愚連隊の連中」が作った町であるともいう。ローマ市には別に特産物もなく、土地が格別農業に向いているわけでもなく、住民に商業の才能や文化的な素養があったわけではなくて、単に体力的に有り余っている人間が多かっただけなので、彼らは年がら年中戦争をしていた*3。戦争が、彼らに富と名誉をもたらす唯一の道だったのである。その意味で、ローマは兵士達の国家だった。

 ところがまた、ローマ人は戦争が格別うまいというわけでもなかった。それは前述の征服過程の遅さを見ても分かる。彼らは破竹の進撃をしなかった。しかし、ローマ人が他の国々の人ときっぱり違っていたのは、彼らが「しつこい」という事であった。ローマ人は(他に出来ることもなかったし)勝利の為にはあらゆる艱難辛苦に耐えることが出来た。彼らはどんなに絶望的な状況でも絶対に負けを認めなかった。敵が優れた武器を持っていれば、こだわることなくそれを即座に導入した。指揮官も兵士達も、ローマの勝利の為には自分の身をどれだけ犠牲にして平気であった。

 共和政ローマ史には数多くの英雄譚がある。天才は出現しないが、あらゆる階層の人々がローマの為に献身的に行動するのである。が、ある意味ではそれは英雄がいっぱいいなければどうにもならなかった、という事でもある。英雄――それも知略的な英雄というよりは、精神的な英雄――がこれでもかこれでもかと輩出して、それでやっとローマは破滅を免れる、といった体である。

 しかし戦争がローマの破滅の原因だったのではない。寧ろ、戦争をしない事がローマの破滅の原因だった。ローマは常に戦争をしていなければならなかったのだ。うち続く強大な敵との戦い。それこそが、ローマを活性化し、ローマの政体を柔軟ならしめ、ローマ人にあらゆる富と名誉をもたらし、ローマの不断の成長を可能にしていた――長年にわたって。そう、ローマ人は、ローマ軍の兵士達は、500年以上もそうやってきたのである。

 それが不可能になったのは、外部に敵を求める事の困難さというよりは、内部の問題である。ローマが全体として裕福になり、また広大に、強力になった為、ローマの為に戦う事が自分達の為に戦う事だ、という意識は失われた。その代わりに台頭したのは、自分たちに恩恵を与えてくれる個々の指導者(政治家・将軍)という存在である。兵士達は、ローマの為でなく、個々の指導者との絆において戦い始めた。ここに至って共和政は、自らの成長を理由として終焉を迎えざるを得なくなる。それに終止符を打ったのはカエサルであり、新たな政治体制――帝政――を開始させたのは、オクタヴィアヌス=アウグストゥスであった。アウグストゥスは、ローマ全国民の最高指導者、ローマ全兵士の最高司令官となる事によって、ローマの分裂を回避する事に成功したのである(前27年)。



3.衰退の原因

 アウグストゥスは軍制をまとめ、これまでの様に拡大を主とするのではなく、守勢を主とする選択肢を選んだ*4。実際の所、もはやこれ以上拡大を目指すのは、現実的ではなかったであろう。しかしローマ帝国の国境を維持するのでさえ、外敵は強く、その広大さから膨大な軍事力が必要だった。兵士達は、これ以後もローマの支柱であり続ける。軍隊なくしてローマはあり得なかった。

 ところがこの事がローマ帝国にとって不幸な結びつきとなった。共和政ローマでは不断の戦争と拡大という目標が、兵士達と国家の利害・理念を一致させていた。しかし、帝政ローマでは、それが一致しなくなる。ローマ帝国は寧ろ平和を欲しているのだから、軍隊がなくて済めば、その方がよいのである。しかし、外敵の存在と版図の広大さがそれを許さない。寧ろ、軍隊は必要不可欠であるために、その発言力は必要以上に強大化した*5

 災厄の種をまいたのは、第二代皇帝ティベリウスである。ティベリウスの治下は平和であったのに、彼は親衛隊長に政治を任せるという、恐るべき先例を作ってしまった。しかしもともとティベリウスは皇帝になりたくなどなかったのに皇帝にならざるを得ず、宮廷の陰謀の陰惨な雰囲気に耐えられずノイローゼになって隠棲し、信頼していた親衛隊長セイアヌスに政治を任せた、という事情であったので、個人的には「気の毒に」と思えなくもない。だがこの先例はローマ帝国にとって決定的なものとなった*6

 すなわち、第3代皇帝カリギュラ、第4代皇帝クラウディウス、第5代皇帝ネロは、それぞれ前帝を親衛隊が暗殺するか、あるいは親衛隊の黙認の元に暗殺が行われた後、親衛隊に担がれて即位する、という状況になったのである。

 68年、ネロが親衛隊に見捨てられて泣く泣く自殺した*7後には、イスパニアの総督ガルバが元老院におされて帝位に就くが、規律にやかましく軍隊にボーナスを出さなかったので信望を失い、親衛隊の支持を得たオトーによって殺される。しかしオトーも、ゲルマニア州の軍隊によって皇帝に推戴されたウィテルリウス軍に破れ、更にウィテルリウスは東方諸州の軍隊によって皇帝に推戴されたウェスパシアヌスに破れた。ここまで一年ちょっと。

 四帝乱立という事も凄いことであったが、それよりも皇帝がひたすら軍隊(それも属州軍隊)の動向によって決まるという事が重要であった。軍隊が、いや、軍隊だけが、皇帝を決定したのである。



4.絶頂と、衰退の予兆

 ウェスパシアヌス帝は豪快な親分肌の人物であって、軍隊との協調はうまくいき、彼の次男ドミティアヌス帝が猜疑心のひどさから親衛隊に殺された事を例外として、養子相続による五賢帝の時代が終わるまで皇帝8代111年の間(69年〜180年)、皇帝と軍隊の協調の時代が訪れた。特にトラヤヌス帝は軍隊の支持も絶大で「最良の君主」と呼ばれる。このトラヤヌス帝の時に、ローマ帝国は最大版図となる(116年頃)。

 だが、最良の時代の後は、衰亡の歴史が始まる。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』は、トラヤヌス帝の時代から記述が始まるのである。

 116年を最大版図として、すぐに帝国の縮小がはじまった。パルティアの反攻、ユダヤやエジプトでの反乱の為、トラヤヌス帝はアッシリアとメソポタミア南部を放棄せざるを得なくなる。ほどなく病没したトラヤヌス帝の後を継いだハドリアヌス帝は、対外政策を守勢に完全に変更し、その上に足繁く帝国領内を視察して回らねばならなかった*8

 五賢帝の最後の皇帝、哲人皇帝として有名なマルクス・アウレリウスの時代には、ローマ帝国の斜陽がはっきりと現れてくる。パルティアで勝利したが、遠征した軍隊が持ち帰った天然痘が帝国各地で広まり、イタリアでは人口の三分の一ないし半分を失ったと言われる。経済的軍事的損失ははかりしれないものとなり、この窮状を見てゲルマン諸族が帝国内へ侵入を始めた。マルクス・アウレリウス帝はただでさえいつも病気と闘わねばならない病弱な身であったが、痛ましいほどの強い克己心と有能さを発揮して、凶猛きわまる諸族をひとつひとつ鎮圧していった。

 しかし、いかに彼が有能であったとしても、帝国の力そのものが弱まっており、変革を受けねばならなくなっていたのである。すなわち、マルクス・アウレリウス帝は帝国外からのゲルマン諸族の侵入を撃退するのに、奴隷や剣奴、それに帝国内のゲルマン人やスキタイ人を傭兵として雇い、軍を編成しなければならなかった。かつて広大な領域を征服し拡大し続けたローマの軍隊も、いまや蛮族の侵入を防ぐのに、蛮族の力を借りなければならなくなったのである。しかも結局、侵入者の一部には辺境の荒れ地に開拓小作農として定着させ、あわせて帝国の防衛にもあたらせるという、前代未聞の処置をとらざるを得なかった。

 だが、マルクス・アウレリウス帝は、ゲルマン人に対して決定的な勝利を今まさにおさめんとするところまでいっていたのである。180年の彼の死と、そして養子相続の終わりから、恐るべき滅茶苦茶な時代が始まった。


5.帝国の曲がり角

 マルクス・アウレリウス帝の実子コンモドゥス帝は、久方ぶりのとんでもない暴君であった。帝国の運命になんの興味も持たなかった彼は、さっさとゲルマン諸族と講和を結んでローマに帰り、猛獣との格闘などの遊楽にふけった。危機に瀕していたゲルマン諸族はほっと一息である。軍隊は勿論不満だったので、コンモドゥス帝は親衛隊の俸給を増額して機嫌をとったが、財政は破綻し親衛隊の力は増大、結局彼は192年に親衛隊によって暗殺された。

 親衛隊は都長官のペルティナクスを皇帝に推挙したが、ペルティナクス帝が軍紀を厳しくしようとしたので在位3ヶ月で親衛隊がまた暗殺。次に親衛隊は、空前絶後の「帝位のセリ売り」を行った。つまり、彼らに最も高額のボーナスを約束した者に、帝位を与えようというのである。

 政治など我関せず、美食がなにより大好きという裕福な元老院議員ディディウス・ユリアヌスが、妻や娘、居候たちにおだてられてこのセリに参加し、親衛隊員一人につき6250ドラクマ(約625万円)の賞与金(全額で約750億円)を約束して帝位をセリ落とした。今まで様々なひどい状況を見てきたローマ市民だったが、さすがにこれにはあきれ返ると同時に大きな憤りを感じ、辺境守備の諸軍団に、侵された帝国威信の回復を呼びかける。

 各地の諸軍団がローマに殺到したが、上パンノニア総督セプティミウス・セウェルスが最終的に勝利を勝ち取り、ディディウス・ユリアヌス帝は風呂場に連行されて殺された。セウェルス朝(4代。途中に断絶あり。193年〜235年)の始まりである。しかしこのセウェルス朝も、ローマ帝国を傾けるのに役立った、という他はない。

 初代のセプティミウス・セウェルス帝自身は有能であり、帝位につくとすぐに、腐敗しきった親衛隊を解体し、新しく親衛隊を地方軍団兵から編成した。これまでは、親衛隊だけはイタリア人だけから構成するという建前を崩していなかったのであるが、もうだいぶ前からイタリア人は惰弱で兵士としては使い物になどならなかったのだ。また、軍事力増強に力を入れ、軍団を新設し、ゲルマン人など異民族を補助軍に編入、また兵士の給料を増額し、現地での結婚を許した。

 これらの諸改革は、必要な事であり、賞賛に値する事であった。しかしそのうちの最後の項目は、軍隊をローマ帝国に結びつけるのではなく、その軍隊が駐屯する現地に結びつける事になる。これは大きな変革となった。しかも、賞賛に値しないことが次々にセウェルス朝に起こる。次のカラカラ帝は、罪のない人を殺しまくり、大浴場を作り、兵士の給料を野放図に増額して国家財政を破綻させた。親衛隊長マクリヌスはカラカラ帝を殺して帝位に立ったが、セウェルス家への忠誠は健在だったので、シリアから血縁のエラガバルス(ヘリオガバルス)が迎えられ、マクリヌス帝は殺される。エラガバルスは美貌の14歳の少年で太陽神の神官。いたずら、ぜいたくが大好きで、数年すると淫欲から妻を5回も取り替え、はては男色・女装に走り、男色の相手に官職を与えまくり、自分を去勢しようとしたという。エラガバルス帝とその母は親衛隊に惨殺され、切り刻まれた遺体はローマ市街を引き回されたあげく、川に投げ込まれた。

 エラガバルスの従兄弟で、最後のセウェルス朝の皇帝セウェルス・アレクサンデルは、善良・柔弱な少年で、母と顧問団の賢明な統制に支えられて当初治世はうまくいっていた。しかし、顧問団の最有力者であった親衛隊長ウルピアヌスが軍規に厳しくて暗殺され、母が倹約家だった事は、マイナスに作用した。軍隊は、セウェルス・アレクサンデル帝には制御不能になりつつあったのである。時あたかも東方では、アルサケス朝パルティアに代わってササン朝ペルシアが勃興し、ローマの東部国境を脅かした為、皇帝は母とともに軍団を引き連れて東部戦線に向かう。ところが同時に、北部国境ではゲルマン諸族がライン・ドナウ国境を侵犯。東部戦線に派遣されていた兵士の多くがライン・ドナウ方面の者達で、故郷に妻や子供がいた。兵士達は動揺し、彼らの強い圧力により北方戦線にも軍隊を割かねばならなくなった。ここに、ローマ帝国史上はじめて、二正面作戦が選択される事になる。これは暴挙中の暴挙であった。

 皇帝とその母は北部戦線で指揮を執る事にしたが、兵力が足りない。パルティアの脱走兵まで戦線に投入された。和平を欲した皇帝と母は、講和を結ぶためにゲルマン人に毎年貢納金を差し出す事を提起する。将兵は激怒した。ローマは戦いを欲していたわけではなかったが、まだ平和を金で買う気にはなっていなかったのだ。兵士達は、マインツ近傍の村で、帝と母を血祭りにあげた(235年)。


6.三世紀の危機

 その後は、235年〜284年の約50年間に70人の軍人出身の皇帝が各地に次々と立って、あるいは殺され、あるいは戦死した。世に言う軍人皇帝時代である。70人の内訳は、正統な皇帝と見なされた者26人、副帝3人、自称皇帝41人。そのほとんどが国境地域の軍人から推挙されたが、それは蛮族の侵入にさらされる国境地域においてこそ自分たちの信頼できる人物を上に立てる事が必要だったからであり、軍隊がそれぞれの土地に密接に結びつく様になった事から来た内乱状態であった。しかし勿論、この内乱状態は寧ろ辺境の防備を手薄にし、帝国の外からの侵入の激化をもたらした。

 あまりにも短期間に次々と皇帝が代わるので、いちいち書いてはいられない。軍人皇帝時代の中でも名君が輩出した中間期(260年〜275年)だけを取り上げよう。

 260年にはローマ帝国の国威はまさにどん底に達していた。五正面作戦に忙殺されていた皇帝ウァレリアヌスがササン朝ペルシア軍の捕虜となってしまったのだ。ペルシア王シャープール1世は、齢70になろうかというウァレリアヌス帝を虐待し、自らが乗馬する時の踏み台にし、最後には死に至らしめ、さらに皮をはいで、交渉を求めてやってきたローマ使節に見せたという。

 帝位を継いだ息子のガリエヌス帝の時代は、ほとんど破局的な軍事・政治・経済上の衰退の時期であった。異民族の攻撃や侵入、山賊や海賊の跋扈などにより実質的な無政府状態となり、経済は崩壊した。西方ではガリア(現在のフランス)駐屯軍が司令官ポストゥムスを皇帝に推挙してガリア帝国(260年〜274年)を樹立し、ブリタニアとスペインをもその領土に加えるという勢いを示した。

 しかし、ガリエヌス帝は勇気と決断と思慮に富み、危機に敢然と立ち向かい、絶えず戦線を駆けめぐった。また、騎馬民族にうち勝つ為、軍制を歩兵中心から騎兵中心に切り替える。ただ、難局の度合いはあまりにも大きく、彼一人では帝国を救う事は出来なかったろうが、天の助けが東に現れた。それは名目上ローマの臣下であったが、半独立勢力となったパルミラである。パルミラの王オダエナトゥスはペルシア軍を殲滅、北から雪崩の様に押し寄せるスキタイ人への防壁の役目をも果たす。

 だが、オダエナトゥスの後を継いだ妻、才色兼備の女王ゼノビアは野心にあふれ、ローマ帝国の領域エジプト、小アジアをもあわせ領した。またもや危機に陥ったローマであったが、ここに登場したのが「復興者(レスティトゥートル)」と呼ばれたアウレリアヌス帝である。軍事的才能はユリウス・カエサルに匹敵すると言われる程の用兵の天才で、政治的手腕も抜群であり、兵士達に非常に愛された。あっという間にパルミラを屈服させゼノビアを捕虜とし、ガリア・ブリタニアも回復、まさにローマ帝国中興の祖となった。

 しかしアウレリアヌス帝はまた、帝国の全都市に対し、城壁を築き自力防衛にあたるべし、という布告も出している。つまり中央権力が自発的に退位したわけで、これは中世封建制への予兆であった。同時に首都ローマに、蛮族の侵入に備えて「アウレリアヌスの城壁」が築かれる。ハンニバル以来500年間安泰であった首都ローマも、ついに蛮族の影に怯えねばならなくなった。


7.帝国分割か単独統治か

 もはやローマ帝国は、アウグストゥス以来のローマ帝国のままでは存続出来なくなっていた。根本的な変革なくして存在を続ける事は出来なかったのである。最も大きな問題は、うち続く外部からの侵入に対してローマ帝国があまりに広すぎ、指揮官がそれに対応出来ないという事と、そこに配置する軍隊を維持するだけの資金の不足、という事であった。284年に即位したディオクレティアヌス帝はその難題を解決しようとあらゆる手を打った。

 ディオクレティアヌス帝は、首都を小アジアのニコメディアに移して東部戦線に意識を集中するとともに、共同統治者をもうけて西の皇帝としミラノに都を置いて防衛にあたらせる。更にそれぞれに副帝を持たせて、帝国を四分割統治させた*9。また、軍隊を増強し、官僚制が整備され、産業の国有化、貨幣の改善、経済の統制、農民の農奴(コロヌス)化、職業の世襲制などが押し進められた。つまり彼のもとで、ローマ帝国は専制君主制の国となったのであり、その意味で、軍隊の支持によって皇帝が推戴されるというわけではなくなったのである。しかしまた同時に、軍隊と政治の中心は東方に移された。ローマ帝国の古地、西方のローマ帝国はどうなるのだろうか?

 彼の改革が好んで受け入れられたわけではない。この時期に初めて、ローマ帝国内から国境を越えて逃亡するローマ市民が現れたのは、帝国滅亡の何よりの予兆であった。しかし他に道はなかったし、実際に彼の政策は効果を挙げた。帝国辺境は維持され、経済はましになった。彼は20年間の統治のあと自ら引退し、なお9年存命であったが、全く政治に関わろうとせず野菜を育てて暮らし、後継者戦争が起こって調停を頼まれた時も、そんな事よりもキャベツの栽培の方が重大だと答えたのであった。

 キャベツと帝国とどっちが大切なのか、微妙な問題であるが、少なくとも帝国四分割統治は、長くもたなかった。内紛が起こったが、それをコンスタンティヌス大帝が比較的早いうちに制覇して混乱を収拾したのは帝国にとって幸運な事であったといえよう。同時に、コンスタンティヌスはキリスト教をローマ帝国の国教としたが、この事は本稿とはあまり関係がないので、深く立ち入らない事にする。とにかく、彼は軍事的にも確かに有能な指揮官であり、政治的手腕もあり、首都を地の利のあるコンスタンティノープルに移し、帝国を30年間完全に維持した。大帝と呼ばれるにふさわしい皇帝であった。

 しかし、自分が分割統治制から生じた騒乱に決着をつけ、単独統治にしたというのに、自分の死後血縁者5人に帝国を分割相続させた事は、理解に苦しむ。結局親族同士が血で血を洗う内乱を繰り広げた末、次男のコンスタンティウス2世が単独統治を回復したが、当然の事ながら猜疑心が強くなり、ただ一人残った血縁者(従兄弟)で、副帝に指名したユリアヌスとも、内乱を引き起こすところであった。ところが、彼は矛を交える前に急逝し、後継者に当のユリアヌスを指名していたのである。

 ユリアヌス帝はキリスト教を攻撃し、「背教者ユリアヌス」として有名だが、軍事的能力は高く、数々の戦勝と賢明な統治によって、西方属州でローマ帝国の権威を再興した。キリスト教関係者以外からの支持は絶大で、ペルシア遠征の途中で急逝した際にも、軍隊はその死を嘆き悲しんだ。

 おそらく、ユリアヌス帝こそが、最後のローマ帝国の輝きであった。ディオクレティアヌス帝以来、ローマ帝国は「分裂の必然」を皇帝の質によって免れていたという事も出来よう。しかし、いよいよ西ローマ帝国へ、最後のとどめがやってくる。それはフン族の西進がきっかけであった。


8.西ローマ帝国の滅亡

 375年、内陸アジアからフン族が怒濤の勢いで西進し、それに圧迫されて黒海北岸に住んでいた西ゴート族*10がドナウ川を越えてローマ帝国領内のトラキア(現在のブルガリア周辺)に避難し、そこに居住する事を求めてきた。ウァレンス帝はしばらくためらった後これを許したが、ローマ側の出先官憲の暴政により西ゴート族は暴動を起こし、これを鎮圧するため出撃したウァレンス帝はアドリアノープルの戦いで戦死、軍隊は全滅。

 テオドシウス帝のもとで小康状態が保たれたが、その死とともにローマ帝国が東西に分けて相続される。それ以後二度と再び帝国が統一される事はなかった。この後、東ローマ帝国は当時の世界の中心として繁栄し、なお1000年の命脈を保つ事になるが、西ローマ帝国は100年ともたない。いや、100年ももったと言うべきか。

 395年、西ゴート族はアラリック王のもと、ローマに譲歩を認めさせようとして再び反乱を起こし、バルカン半島とギリシアを襲撃、401年にはイタリアへ侵入した。西ローマ帝国皇帝は幼いホノリウス。それを支えていた、いや、支え得るのは、スティリコというヴァンダル族すなわちゲルマン蛮族出身の将軍だけであった。彼以外のローマの将軍は、もはやローマの為に戦う能力もなければ、戦う意志もなかったのである。スティリコ将軍は東奔西走し、西ゴート族と東ゴート族を追い払う事に成功する。しかし406年、新たにゲルマン民族のうちヴァンダル族、アラン族、スエヴィ族がマインツの防衛戦を突破し、ライン川を越えて進撃してきた。

 ヴァンダル族はスティリコの出身部族である。だが彼はローマ帝国の為に行動する。なるべく蛮族同士を戦わせようとし、またイタリア人に徴兵令を発した。ところがイタリア人は徴兵制絶対反対を唱え、一方では蛮族と手を結ぼうとしたという理由でスティリコ将軍を告発。一体イタリア人が戦わずに誰がイタリアを守るのか、また彼の様な有能で忠誠心のあつい人物を排除してこの先帝国に未来があるのか、ローマ人にはもう判断もつかなくなっていたに違いない。スティリコは反乱を起こそうと思えば起こせた筈だが、帝国の権威を尊重しすぎていた為、移されていた首都ラウェンナの一教会で処刑された。

 ローマ帝国が頼りに出来た「力」は、ローマ人自身のそれから蛮族のそれに、ほとんど既に移ってはいたが、難局にあたっては、そのどちらの力をも総動員すべきであっただろう。しかしこの時からローマ帝国は、そのどちらの力も使う事を否定したのである。ここから先は全く本当にもうどうしようもない。

 ヴァンダル族らはガリアを略奪した後スペインへ向かったが、410年、西ゴート族は帝国発祥の地ローマ市を蹂躙。ローマ市は既に首都でなくなってからだいぶ経ってはいたが、このことは帝国の人々に大きなショックを与える。しかしだからといって彼らが何か努力したわけではない*11。西ゴート族は412年にはガリアとスペインに向かい、イタリアはローマ帝国に保持されたが、これは西ゴート族が勝手にそっちへ行ってくれたおかげである。416年には、スエヴィ族に現在のポルトガル北方、ヴァンダル族にアフリカ、西ゴート族に南ガリアの占住を、それぞれ認めざるを得なくなる。彼らは「同盟部族」と呼ばれ、ローマ帝国と同盟条約を結んでいるとされたが、勿論それぞれの地域で自分たちの習慣、社会を守っていた。

 451年にはついに恐るべきフン族のアッティラ大王がやってきたが、そのきっかけとなったのはローマ皇帝の姉ホノリアの、自らの情事露見に対して与えられた罰への逆恨みだったというから、あまりの馬鹿さ加減に声もない。ホノリアの指輪を渡されたアッティラ大王は、自分はホノリアの婚約者であると宣言し、だから帝国の半分の相続権があるとして大軍を率いてガリアに侵入してきた。蛮族出身のアエティウス将軍が必死の外交努力で西ゴート族のテオドリック王の援助を受け、更に西ローマ帝国の全軍をもってアッティラの軍隊を何とか撃退する事に成功。その後アエティウス将軍は時の皇帝ウァレンティニアヌス3世に刺殺されたが、ローマに服属していたすべての蛮族がこの仕打ちに憤激し、そのうちの一人に皇帝は殺される。アジア人(フン族)は去った。しかしゲルマン民族がローマ帝国を支配するであろう。

 その後には既にアフリカで自立してヴァンダル王国を建てていたヴァンダル族*12と、同じく西ゴート王国をガリアからスペインにかけて建てていた西ゴート族がそれぞれ自分達に都合のいい皇帝を即位させようと争った。もはや、帝国内の蛮族ではなく、帝国を利用しようとする外部の蛮族達が皇帝を決めるのである。その後しばらくスエヴィ族出身のリキメルがローマ皇帝を傀儡として操ったが、475年、アッティラの秘書出身のオレステスが自分の子ロムルス・アウグストゥルスを傀儡皇帝に立てた。既に何年か前から、西ローマ帝国政府は事実上存在しなくなっており、西ローマ帝国という枠組みは影響力をほとんど全く失っていた。476年、スキリ族の指導者オドアケルがオレステスを敗死させ、幼帝ロムルス・アウグストゥルスを廃し、以後自分が東ローマ皇帝代官としてイタリア統治に当たると宣言。

 西ローマ帝国は滅んだ。しかしそれは、始まりと同じ様に、ひっそりとであった。共和政ローマがゆっくりと興隆し、当初誰の注意もひかなかった様に、西ローマ帝国もゆっくりと衰亡し、ほとんど存在の意味がなくなってから、誰の注目も集めない中、ひっそりと滅亡した*13。既にヨーロッパはゲルマン諸族の時代となっていた。







 
*1 古代ローマ史は王政ローマ(前753年〜前509年)、共和政ローマ(前509年〜前27年)、帝政ローマ(前27年〜後476年(西)、東ローマ帝国は後1453年まで存続した)の3つの時期に区分される。「古代ローマ」という用語は、これら3つの総称として使う事にする。
 
*2 年代は諸説あるであろうが、大体以下の様に考えた。イタリア半島征服の完了:前246年 地中海沿岸征服の完了:前30年 ローマ帝国の最大版図:後116年 西ローマ帝国滅亡:後476年
 
*3 ローマでは戦争中はヤヌス神殿の門を開き、平和な時には門を閉める事になっていたが、前673年〜前30年の間に門が閉められたのはたった1回(1年?)であるというからもの凄い。
 
*4 これは、後9年に部将ウァルスがゲルマン人との戦いに3個軍団が全滅させられるという大敗北を喫した事(トイトブルクの戦い)が大きなきっかけとなっている。アウグストゥスはこの敗戦の報のあまりのショックに、数ヶ月間は錯乱の体で、時々壁に頭を打ち付けては、「ウァルスよ、余の軍団を返せ!」と叫んだという。それ以後アウグストゥスは全戦線での守勢を選択した。
 
*5 故に、例えばローマ帝国の周辺にいた強敵、ゲルマン人やパルティア王国などがあれほど強くなければ、ローマ帝国は軍縮が可能になり、もっと健全に国家運営が出来たかもしれない。あるいは、クビライの帝国などの様に、国家の重要政策を思いきり方向転換出来ればよかったのか。何にしても、ローマは「兵士達の帝国」である事から脱する事が出来ず、故に興隆し、故に衰退した、と言えなくもない。
 
*6 しかし、帝国の経済機構の整備の上では、ティベリウスが帝国の安寧の為に果たした役割は非常に大きかった。彼以後の皇帝が無茶苦茶やってても帝国がなんとかなっていたのは、ほとんどひとえに、アウグストゥスとティベリウスの偉業のおかげである。
 
*7 彼の自殺のさまはほとんどギャグであるので、詳しい本のご一読をお薦めするが、この文脈で示唆的な事に、彼は死の直前に、かけつけた親衛隊員(別に味方でなく、どちらかというと敵)を見て、「遅かった。しかしそれが忠義か。」と言っている。
 
*8 ハドリアヌス帝は詩人フロルスに「皇帝なんぞにはなりたくない、ブリトン人のもとにゆき、どこそこやらにもさまよって、それにスキティアの冬さえ我慢し……」とからかわれたが、ハドリアヌス帝の方でも「フロルスなんぞにはなりたくない、居酒屋の間を泳いだり、料理屋の間をうろついて、ふとった油虫でがまんし……」とやり返した。
 
*9 あまり言及していないが、皇帝(正帝)の他に副帝が立つ事はマルクス・アウレリウス帝の時に始まり、それまでにも往々にしてあった。実際、広大なローマ帝国を一人で見るのは非常な難事であって、ゲーム『IMPERIUM ROMANUM II』のプレイ中に、ローマ帝国を担当したプレイヤーが他のプレイヤーから早くしろとせき立てられたのに対し「ローマ帝国側に複数のプレイヤーがいなきゃそれは無理だ」と言い返し、「そうか、だからローマ帝国は分割されたのか」と皆が得心したという話も伝わっている。
 
*10 その人数は、6万という説から、20万、あるいは30万とも言われる。
 
*11 やった事と言えば、「これはキリスト教などという邪教を信じた為だ」とする勢力に対して教会側が反駁書を書いた事くらいであろう。
 
*12 ヴァンダル族は455年には海を渡ってローマ市を略奪している(第四次ポエニ戦争)。
 
*13 476年に西ローマ帝国が滅亡した、という事が承認されはじめたのは、6世紀ごろの年代史家の間からである。476年当時は、ほとんど誰もそんな事を意識しなかったと思われる。




付記:ゲルマン民族はなぜローマ帝国に侵入しようとしたのか?

 ゲルマン民族が西ローマ帝国の領内へ侵入・進入しようとする理由は、軍事的征服という事よりは、「生活の糧を求めて」という事にあった。そもそもヨーロッパは氷河期に氷河の浸食によって土壌の栄養分が削り取られてしまっていて、土地が非常に痩せている。南部は若干ましであるが、ヨーロッパの北部は特にひどかった。ゲルマン民族は、痩せている土地、及び寒冷地でも出来る牧畜と共に耕作もしていたが、土地が痩せているので耕作をすると土壌がいっぺんでダメになる。1年耕作をすると、次の年はもはや同じ場所で耕作は出来ない。してもさっぱり収穫が得られないのである。そうすると、耕地をどんどんと変えていくしかない。

 その意味で、ゲルマン民族はもともと半分は移動する民族だった。一部のゲルマン民族は紀元前100年頃にはローマの領域へ入ろうとしている。生活の糧を得るためである。ローマはそれを阻止した。しかしゲルマン民族にとっては土壌の豊かなローマ領内へ入る事は、切実な願いである。だから、マルクス・アウレリウスの時代の様にローマ帝国が弱体化したと思えば敢然と侵入を開始したし、軍人皇帝時代もローマ側の混乱に頼って侵入をしたのだった。

 しかしローマ帝国がまだなんとか保持されている間は、ゲルマン民族が大規模にローマ帝国領内に入る事は出来なかった。多くのゲルマン人がローマ帝国の傭兵としてゲルマン民族相手に戦っていたが、それは勿論ゲルマン人にとって悲劇的な事であった。

 フン族の西進をきっかけとして西ゴート族が「どうしてもどうしてもローマ領内に入らせて欲しい、そうでなければ我々は破滅だ」とローマ帝国に対して訴えた。ローマ帝国はこれをしぶしぶ認めたわけだが、帝国内で居住を始めた西ゴート族に対する仕打ちはひどいものだった。西ゴート族は待遇改善を要求し叛乱を起こし、ローマ皇帝ウァレンスはこれをひとひねり出来ると思って親征したが、結果はローマ軍は全滅、皇帝は戦死(378年のアドリアノープルの戦い)。この結果はゲルマン民族を勇気づけた。「ローマ帝国は弱い。我々がローマ領内に入るチャンスはある」……と。

 特に西ローマ帝国の軍事力は弱かった。もともと経済力が衰退していたせいもある。それに比べれば東ローマ帝国はまだ頑強だった。5世紀初めにはヨーロッパは寒冷期に入り、北方ゲルマン民族の苦境はますます深刻化した。彼らはとりあえず東ローマ帝国には対抗出来ないので、弱い西ローマ帝国に入ろうとした。とにかくローマ領内に入る事が出来れば、そこで生き延びる事が出来よう。

 実際、西ローマ帝国はその動きにほとんど対抗する事が出来なかった。大規模移動を開始したゲルマン民族に対して、「同盟部族」の地位を与え、懐柔するのが関の山であった。しかしゲルマン民族にとっては、それで充分だった。彼らは移動した先の土地のローマ人(ローマ帝国人)の人口の、せいぜい1/50しか人口がなかったのである。ゲルマン民族はまずはローマ領内で安定した生活を得たかった。それが得られない様であればそれを得る為にローマ領内でも移動を繰り返したし、ローマ帝国に対して示威行動も行った。ローマ市の略奪までしたものもある。ローマ帝国の実力は日に日に衰退していった。

 しかし、ほとんど全ての西ローマ帝国領を占めるに至ったゲルマン民族の人口は、全人口から見れば2%しかない。98%はローマ人である。いくら軍事的・政治的にゲルマン民族が優越している(というか、ローマ帝国が有名無実化している)と言っても、それだけで現地のローマ人の不満を抑えられるというものではない。だから、ゲルマン民族の支配層はローマ帝国の「官職」を欲した。ローマ帝国の官職が得られれば、大きな名分を得ることが出来る(また、ゲルマン民族の支配は、弱体化していた西ローマ帝国による統治よりもマシでもあった)。西ローマ帝国に終止符を打たせたのは傭兵隊長オドアケルであったが、彼は西ローマ帝国を滅ぼすと同時に、東ローマ帝国に使いをやり、自分の王国の承認を得ようとした。もはや存在する意味のない西ローマ帝国はもうどうしようもない。しかしそこに自分が実質的な統治体制を作り、それに東ローマ帝国の承認が得られれば、その方が自分にとっても人々にとっても良いと考えたのだろう。

 オドアケルは「ローマ帝国の打倒」などという大それた事をするつもりはなかった。彼が目指したのは、他の地域で他の部族がしたのと同じ様に、自分たちの部族国家をイタリアで建設したいという事だけだった。ただ、そうするためには「西ローマ帝国」とかいう有名無実化していたものを、本当に無名無実にする必要があった。

 オドアケルの王国は大してもたなかったが、ゲルマン民族は結局その後のヨーロッパの主要な登場人物となった。大移動を始めた時のゲルマン民族たちの願いは実現されたと言えよう。彼らは生き残った。結果としては上出来だった。恐らくローマ人にとっても。