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ルイ=シャルル=アントワーヌ "正義のスルタン" ドゥゼー・ド・ヴェグー 寛大、公正で、判断力、決断力、勇敢さ、忠誠心、インスピレーション、兵士達の心服などの点でフランス第一執政時代最高の人物。惜しむらくは、1800年6月14日、マレンゴの戦いを勝利に導いて自らは戦死した。古風な性格の持ち主で、権力とか政治支配の感情とは全く無縁の人物であった。 1768年に貴族の家に生まれた彼は、15歳の時に非公式の陸軍少尉としてブルターニュ連体の軍籍(近衛兵)に入ったが、1789年、フランス革命が起こると躊躇なく革命戦列に加わった。1793年のレルツハイム会戦、1796年にはライン遠征軍で名を挙げた。1797年にボナパルト将軍と出会い、その知遇を得てエジプト遠征にも参加。考古学者を連れて熱心に遺跡の測定と発掘を指揮した。高エジプトの支配を確立した後は統治に専念。その寛大、公正さから、エジプト人に「正義のスルタン」「公正なスルタン」(スルタンとは、現地の支配者の呼称)と渾名された。 ボナパルト将軍は「クレベールの才能は天性のものであるが、ドゥゼーの才能は教育と労苦の賜物だ」と評し、自分と同じ「努力の人」ドゥゼー将軍に並々ならぬ親近感を抱いており、高エジプトの平定を賞してサーベルひとふりを贈った。ドゥゼー将軍は当時ボナパルト将軍の最大の親友で、ランヌ、ベルティエ、ダヴーまでもが不満分子の仲間に加わったのに、毅然とした態度でボナパルト将軍を支持した。 ボナパルト将軍がフランスに帰った後もエジプトにとどまったが、在エジプトフランス軍総司令官のクレベール将軍と意見が対立し、フランスへ帰国した。既にブリュメール18日のクーデタを経て第一執政となり、第二次イタリア遠征中であったナポレオンから、「出来るだけ速やかに、私のいる所へ来て貰いたい。」と伝えられていたので、彼は急いでイタリアに駆けつけた。その途上、悪党一味に襲われ、荷物を略奪されて軍服を失い、旅行服しかない状態であった。ナポレオンのもとへ到着した日には、ナポレオンと二人だけで夜を徹して語り合ったほどで、ナポレオンはドゥゼーを最も高く買っており、パリに帰還ししだい、彼を陸軍大臣にするつもりであった。 1800年6月13日、ナポレオンは麾下の師団中、ブーデ師団に重要な陽動作戦の任務を与え、主力とは別に行動を開始させた。ブーデ将軍は優秀な指揮官であったが、ナポレオンはこの作戦の重要性を鑑み、更にドゥゼーにこの師団に同行し、指揮してくれる様に頼んだ。 ノヴィ方面に向かったブーデ師団とドゥゼー(軍服を調達する余裕がなく、私服のままであった)には、14日の午前中からアレクサンドリア方面からの遙かな砲声が聞こえていた。ドゥゼーは困難な選択に迫られた。砲声のする、ナポレオンが戦っているであろう方向へ転進するか。それともナポレオンの最初の命令通り、ノヴィ方面へ向かうか。ドゥゼーは、「命令を明確にして頂きたい」という書状を持たせて、ナポレオンを探し出す為に騎馬伝令兵を一人派遣した。ところが、この伝令兵は出発してすぐに、ナポレオンが9時前に出した伝令兵に遭遇した。伝令の内容は、ポッツォロ・フォルミガーロ方面に前進せよ、というものであった。ドゥゼーとしては、服従するしかなかった。 しかし、ナポレオンから「引き返せ」という命令が来るだろうという予感がした彼は、前進の命令を受け取った後でも、前進を遅らせた。のろのろと行軍していた部隊は、1マイル行かぬうちに第二のナポレオンからのメッセージを受け取った。「引き返せ、決戦進行中」。あるいはまた、ナポレオンの書状は次の様な内容であったという説もある。「余は敵を攻撃しようと思っていたが、敵のほうが余の先を越してしまった。まだ可能なら、後生だから、引き返してくれたまえ。」 マレンゴ村付近の戦いは、オーストリア軍による奇襲と情報の混乱の中で、敗北の淵にかかっていた。オーストリア軍の最高司令官メラス将軍は既に勝利を確信し、前線からアレクサンドリアの町へ帰ってしまい、ウィーンへ戦勝の知らせを届ける様手配していた。ナポレオンは暗い状況の中、必死で部隊を再編し、援軍の到着を待っていた。 ドゥゼーとブーデ師団は、午後3時頃に戦場に到着した。馬に乗ったままで、ナポレオンとドゥゼー、将校達は軍議を行った。ナポレオンは、暗い見通しを持っている事を吐露せざるを得なかった。ドゥゼーはナポレオンに、敵の意表をついておどりかかり、潰走させようと試みる事を提案した。実際、それ以外に方法はなかった。 ドゥゼーはブーデ師団を率いて整然と一糸乱れずに敵に向けて前進を行った。これは崩れかけた味方の注意をひきつける為であった。マルモンの砲兵隊(ブーデ師団から移されたもの)が突如オーストリア兵の側面に猛砲撃を浴びせかけた。しかしオーストリア軍の優位は圧倒的であった。砲兵隊はひとつずつ沈黙させられていく。ドゥゼーとブーデは師団の先頭に立ってオーストリア軍に攻めかかった。ドゥゼーは兵士達に敵へ飛びかかる様に駆り立て、自らは馬に乗りながら、兵士達の先に出て、連発される弾丸のさなか、突入した。この光景は、フランス兵達を奮起させた。彼らの多くは、まだ決定的敗北に近づいているものと確信していたからである。この瞬間には、しかし熱狂と興奮が恐怖に打ち勝った。 その後の勝利は、恐ろしくあっけないものであった。ケレルマンが混乱したオーストリア軍に騎兵突撃を敢行すると、今の今まで勝利を信じていたオーストリア兵達はあっという間に浮き足立ち、持ち場を守ることよりも命を守る事に懸命になり、大潰走を起こしてしまった。フランス軍はフランス軍で、意外な勝利の為に、追撃を行う事を忘れてしまっていた。メラス将軍は7時に、フランス軍逆転の報をアレクサンドリアの司令部で聞いた。その逆転があまりにすみやかで、かつオーストリア軍の敗北が徹底的なものだったので、メラス将軍に出来る事はもはや何もなかった。 しかし、ナポレオンは、偉大な勝利──この勝利なくしてはナポレオン帝国はあり得なかった勝利──と共に、最も貴重な、敬愛すべき友人を失ってしまった。彼がナポレオンの「帝国」の時代にも存命であれば、ナポレオンが全能者としての孤立の中にあっても、彼を友に持ち、また永く友としておくことが出来たであろう人物を。 ドゥゼーの死が知らされた時、ナポレオンは気が動転して泣き伏した、という。しかし、公(予備軍公報)には「どうして私には泣くことも許されないのか?(或いは訳し方によっては「泣くことが許されない筈はない」)」とだけ言ったという事になっている。。 そしてドゥゼーの最後の言葉。『予備軍公報』(ナポレオンが編纂させたもの)によると、ドゥゼーは攻撃のしょっぱなに弾丸に貫かれ、かたわらにいた副官のルブラン少尉に「俺は後世にも伝えられる程の働きをしなかったのを悔やみながら死んでゆくと、第一執政に伝えてくれ」とだけ言い残して死んだ、という事になっている。 しかしこの話は、ナポレオンによる創作だ、という説が強い。或いは彼は、死の間際に、兵士達に対して気落ちさせない為に自分の死を隠しておくように勧告したのだ、という話も主張されていた。しかしそんな事はありそうにない。と、いうのは、彼はほんの数日前にイタリア遠征軍に合流したところであり、彼を知っている人間は少なかったし、それどころか彼は、階級章のない私服を着用していたのである。 他の資料によれば、ドゥゼーが馬に乗って突撃を開始していたちょうどその瞬間に、弾丸が心臓の上に当たり、右肩を貫通した。そこでドゥゼーは「死ぬ!(或いは「死だ!」)」とだけ言って落馬し、地上に落ちた時には既にこときれていた、という。 しかしもっともありそうな解釈は、ブーリエンヌによるものである。それは、ドゥゼーが死ぬことになった戦いはあまりに短く、急激に変転したものであり、興奮状態は極度に大きかった。その中では、ドゥゼーの死は、誰にも認知されなかったのではないか、というものである。 戦いのさなか、ブーデ師団の一軍曹がドゥゼーが地面に倒れているのを見つけ、上官に彼のマントを取っても良いかと尋ねた。マントの後ろから弾丸が貫通していたという。これが恐らく、ドゥゼーの死に関する信頼出来る証言の最初のものである。 ドゥゼーの副官サヴァリは、ある連隊長から、ドゥゼーの死を知らされた。彼は突撃を開始したブドウ畑に、ドゥゼーの死体を探しに戻った。死体は既に略奪の対象となっており、どの死体も裸だった。結局、彼の記憶にある、彼と一緒にいた最後の地点から数メートルのところで彼の死体を見つけた。既に夕闇が迫り、暗かったが、濃い頭髪によって彼だと知ったのだった。ドゥゼーの死体は、他の死体と同じく、すっかりはぎ取られていてシャツしか残っていなかった。 彼の遺体は翌日、防腐処理される為にミラノへ送られた。 参考文献: 『人間最後の言葉』クロード・アヴリーヌ著 ちくま文庫 『ナポレオン言行録』オクターヴ・オブリ編 岩波文庫 『ナポレオン秘史 マレンゴの戦勝』アントニーノ・ロンコ 而立書房 『ナポレオン 下』長塚隆二 読売新聞社 『ナポレオンの戦場』柘植久慶 原書房 |