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南北戦争将軍列伝



.ジョージ・B・マクレラン
 George Brinton MacClellan(1826〜1885)

 訓練と組織化の名人だが、敵を過大評価してしまう傾向が強く、恐ろしく慎重で進撃の遅いマクレランは、どちらかと言えば酷評される事が多い。しかしむしろ、北軍が勝つためには「まず勝ってから戦う」事が有効であった事を考えると、彼は戦略的には正しい選択をしていたのである。また彼は、いざ戦場で相まみえて戦うという事になれば、かなり優秀な指揮官であった。リーは戦後、「敵の中でマクレランがいちばんすぐれていた」と言っている。

 心から部下を愛し、細かい点にまで気を配り、士気を鼓舞する事に巧みで、整然と事を処理する頭脳を持った、北軍の中で最も愛された将軍であった。彼は「ちびのマック」と呼ばれ、多くの崇拝者を持っていた。が、自己賛美に溺れ、司令官在職中からリンカン大統領をあなどってまともに話も聞かず、解任された後は北部の「南部との講和派(敗北主義派)」の綱領を掲げて1864年度の大統領選挙にうってでて、リンカンに惨敗した。結局のところ、彼に欠けていたのはむしろ政治的センスであったのだろう。



.ジョージ・G・ミード
 George Gordon Meade(1815〜1872)

 ゲティスバーグの戦いの3日前に突如北軍司令官に任命され、リーの攻勢を窮地のところではねのけたミード将軍は、すぐれた馬車馬タイプの軍人の典型ともいうべき将軍である。勇猛だが健全な判断力を有し、現実的で用心深く、馬鹿げた決定や、人をあっと言わせる様な決断などは下した事がなかった。しかし彼の、地形を見るすぐれた眼と、刻々と変化する戦術的状況において危険地点から他の危険地点へと部隊を移動させる素早い決断力とが、ゲティスバーグの危機を救ったのである。

 性格は短気でかんしゃく持ち、規律をやかましく励行し、部下をびくびく飛び回らせた。ゲティスバーグの戦いの後、リーを追撃する事を拒否してリンカン大統領の不興を買い、以後はグラントの指揮下で東部戦線を戦う。南軍降伏後リーに会い、軍帽を脱いで「おはようございます、将軍」と言うと、リーが「あごひげに白髪が増えたが、どうした?」と聞いた。ミードは「それもあらかたはあなたのためですよ」と答えた。戦後もミードは軍に残り、1872年11月6日に没した。



.ユリシーズ・S・グラント
 Ulysses Simpson Grant(1822〜1885)

 北軍に勝利をもたらした英雄グラントは、リーらの、それまでの「兵力集中決戦思想」から最初に訣別し、近代的な「トータル・ウォー」の概念をはじめて体現した人物であった。彼は戦術的に決して無能だったわけではない(もっとも、リーには及ぶべくもない)が、彼の本領はむしろ、勝敗の報が民衆に与える政治的効果を考えて行動する点にあり、勝利の為には恐るべき不屈さと大胆不敵さをもって、またそれまでの軍事思想の常識から反する事であっても、実行に移した。

 体格はずんぐりしていて、軍服の着方に気をつかわず、無口で大酒飲み、しかしその冷静で沈着な態度、強く鋭いまなざし、無骨な中にも自然に備わった威厳には、誰もが心を打たれ、その庶民性は一般兵士にも親近感を抱かせた。だが戦後の人生は芳しいものではなく、1868年に大統領に当選し2期つとめたが、汚職にまみれ、「歴代最低の大統領」の汚名をかぶり、政界から引退後も事業に失敗した。最後は病気で水も飲めない苦しさの中、息を引き取った。最期の言葉は「水……」であった。



.ウィリアム・T・シャーマン
 William Tecumseh Sherman(1820〜1891)

 シャーマンはそもそも、西部戦線におけるグラント将軍のもとで最も信頼された兵団長であり、その近代的戦争の薫陶を色濃く受けた。しかし彼が深南部に進撃した時、彼はグラント以上にその体現者となる。敵の兵士そのものだけでなく、敵軍の闘志をくじき、戦力を維持する根源を叩くという事を、徹底的に成し遂げたのである。これは彼にしか出来得なかった事であろうが、しかしその為に彼は南部人からは以後深く恨まれる事となった。

 シャーマンは、短く刈ったあごひげや、だらしのない服装など、外見上もグラントに似ており、勝利への不屈の闘志の面でもグラントと同等以上のものを持っていた。だが、グラントが無口なのに比べるとシャーマンは饒舌で、ダンスと美人が大好きであった。戦後はグラントの大統領就任と共に陸軍総司令官となり、その職に15年間在職した。在職中は、インディアンの蜂起に悩まされる。1884年に職を退き、1891年、71歳の誕生日の直後に没した。



.フィリップ・H・シェリダン
 Philip Henry Sheridan(1831〜1888)

 北軍で最も好戦的な将軍として知られるシェリダンは、主に騎兵隊指揮官として頭角を現し、活躍した。戦闘では終始積極的で、敵の弱点を見逃さず付けこむのを得意とし、南軍の後方輸送ルート切断やさきがけの陣地争いにも功績があった。1864年の南軍のシェナンドアでの陽動作戦に対して派遣され、最終的にこれを破る。リッチモンド攻略に際しては、イエロー・タバーンの戦いで、ライバルの南軍騎兵隊長スチュアートを戦死させる功があった。

 「リトル・フィル」の愛称が示すように、馬上では颯爽としているが、降りると周囲が「衝撃」を受けるぐらい胴長・短足で小兵、容貌はアイルランド系の両親にも似合わず、鉄道建設に従事する東洋人風。拳骨を振り上げながら部下に「南軍をやっつけろ、やっつけろ」とわめいたという。戦後は主として西部インディアンの討伐にあたり、「良いインディアンとは、死んでいるインディアンのことだ」と言い放った事で有名。1888年6月、シャーマンの跡を継ぐ形で大将に昇進したが、同年8月に死去した。





.ロバート・E・リー
 Robert Edwards Lee(1807〜1870)

 リーは、世界戦史全体を見渡した時にもずば抜けて傑出した評価が与えられる戦術家であり、尊敬を受けた軍人である。彼はナポレオンやジョミニ理論の「戦争芸術」とも言うべき戦い方の最後にして最高の体現者であった。だが、南北戦争中にその様な戦い方は時代にそぐわないものになっていく。グラントやシャーマンらの、人民を精神的にも物理的にも巻き込んだ戦い方がその効果を発揮してくるにつれて、リーの戦い方は限界を露呈せざるを得なかったのである。

 長身のロマンスグレー、整った顔立ちで表情豊か、威厳に満ちていたが温厚で心優しく、公正で潔癖な人柄。すべての人に(敵にさえ)愛され、信頼され、畏敬され、部下の将兵たちの間には熱狂的な献身の念を抱かせた。南軍兵士たちは敗れても、敬愛する「ロバート親分」の落ち着いた表情を見て、自信を取り戻すのであった。戦後は南部の人々へ連邦への忠誠を説き、また、ワシントン大学の学長となった。1870年10月12日に病死。最期の言葉は「進撃だ、テントをたため」であった。



.トーマス・J・ジャクソン
 Thomas Jonathan Jackson(1824〜1863)

 鉄壁の守りで「ストーンウォール」と呼ばれたジャクソン将軍は、戦術のみならず作戦行動においても並はずれた力量の持ち主であり、リーにも匹敵する将軍であった。リーは優秀な将軍に部隊を分け与えて効果的な作戦をとる事が多く、ジャクソンの存在はリーの戦術の前提条件ですらあった。逆に言えばジャクソンが戦死した時、南軍はほとんど半身を失った様な損失を受けたのである。

 礼儀正しく、寡黙、厳格、真面目で、正義を愛し、民情に気を配り、捕虜を手厚く取り扱った。特に、非常に信仰心があつく、事情の許す限りは一日も礼拝を欠かすことがなかった(ジャクソンの旅団は、信仰深い南軍の中でも最も「抹香くさい」集団であった)。国家に奉仕する心から戦争に参加し、勇敢で、戦闘中は微動だにせず直立不動で指揮にあたった。彼を知る誰もが彼を尊敬し、慕った。ジャクソン戦死の報が伝わった時、彼を知る北軍の将兵も涙を流した。その最期の言葉は、「川を渡って、木陰で休もう」というものであった。



.ジョセフ・E・ジョンストン
 Joseph Eggleston Johnston(1807〜1891)

 「ジョーおやじ」と慕われたジョセフ・ジョンストン将軍は、リーと同郷同年、士官学校の同級生で、南北戦争でもリーと助け合う様にして戦線や作戦を担当した。しかし、博打の様な作戦をとる事の多いリーとは対照的に、ジョンストンの用兵は堅実で用心深く、かつ巧妙。正面突撃を避け、敵が進軍すると自軍を引き、その途中で敵の弱点を見つけてそこに突如大兵力をぶつける、などの戦法をとった。

 性格は高潔、篤実で、任務に誠実に取り組み、部下の信頼を得た。彼は戦争の後半、主にシャーマン将軍を相手にして戦い、リーがグラントに降伏した17日後、大部隊の指揮官としては最後に、シャーマンに対して降伏の申し入れを行った。シャーマンはこの年長の敵将を最大の敬意を表して迎え遇した。戦後、ジョンストンは鉄道会社の社長となる。1891年2月14日、シャーマンが死ぬと、ジョンストンは老齢にも関わらず寒さの中帽子もコートも着用せず、かつての敵に敬意を表して葬列を見送った。だがこれがもとで肺炎にかかり、3月21日に亡くなった。



.ネーサン・B・フォレスト
 Nathan Bedford Forrest(1821〜1877)

 「あの悪魔のフォレストは、10,000名の損失と国庫の破滅を招いても追い詰めて殺さねばならない」とシャーマン将軍をして言わしめたフォレストは、最も恐れられた南軍の騎兵隊指揮官であった。戦争を通じて乗馬を30回撃たれ、自身も4回負傷しながら、時にはしんがりで大胆不敵な戦いをこなし、電撃的な奇襲によって鉄道や電信線を破壊し、守備隊を降伏させて武器を手に入れ、北軍の進軍を妨害。シャーマンのアトランタ進撃の際には北軍の補給路を分断して徹底的に苦しめた。彼の原則は「最大人員でそこを最初に取れ」というものであった。

 天才肌で大胆不敵、直感と勇気にあふれ、「南北戦争における両軍を通じて最も非凡なる男」と言われる。リーらの降伏後、メキシコで抵抗を続けようかとも悩んだが、ミシシッピ川以東では最後に降伏。もともと奴隷商人の白人優越主義者で、戦争中にも捕虜の黒人300人を殺しており、戦後は白人優越主義秘密組織KKK団の指導者の一人となったが、後に離脱。1877年10月29日、糖尿病で死去した。