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.1861年7月21日 第1次ブル・ランの戦い −東部戦線− マクダウェル vs. ボーリガード★ 北軍司令官マクダウェルは、ブル・ラン川の渡河可能地点がすべて南軍におさえられている事から、主力を迂回させて敵の左翼を衝く奇襲作戦をとった。ところが指揮官も兵卒も戦闘未経験である事がたたって、進撃は遅れるし攻撃は南軍のエヴァンズに察知され、奇襲効果をまったく失ってしまう。マシューの丘での戦闘は12時頃に南軍戦線が崩壊したが、その南方のヘンリーの丘にジャクソン将軍らが到着しており、戦闘はそちらに移った。 しかしその後マクダウェル将軍が「戦力の逐次投入」等の失策を犯したのに対して南軍には増援部隊が到着し、午後5時には北軍は総崩れとなり、算を乱してワシントンへの退却が始まった。しかし、南軍の足並みも乱れ、大量の捕虜を扱いかね、さらに遺棄された物資の略奪行為(開戦当初、戦費は自弁だったのでやむを得ない面があった)のため追撃は不可能となり、南軍の痛手も大きかった事から夜7時、戦闘停止命令が各部隊に通告された。この戦いでは「北軍は負けて軍紀が乱れたが、南軍は勝利して軍紀が乱れた」と言われている。 .1862年4月6日〜7日 シャイローの戦い −西部戦線− ★グラント vs. ボーリガード シャイローの戦いは、グラントとビューエルの北軍部隊が合流する前に各個撃破を行おうという南軍の企図から生まれた。「平和な所」を意味するシャイロー教会付近に宿営、新兵訓練などを行っていたシャーマンらの北軍5個師団は敵の襲来をまったく予期しておらず、朝方南軍の攻撃を受けて朝食中の兵士らはコーヒーカップや皿を放り出して戦わねばならなかった。しかも運悪く新兵を中心とする師団が真っ先に攻撃を受けて遮二無二逃げまどった為、隣にいたシャーマンの師団も戦線を組めず、恥も外聞も構わないような撤退を行う。 しかし南軍の方でも弾薬の欠乏や指揮系統の混乱が生じ、北軍に立ち直りの時間を与える事となる。激戦は夕闇が迫るまで続いたが、ボーリガードは翌日に北軍を川に追い落とすつもりで戦闘を中止させた。北軍にはビューエルの軍が増援として到着しつつある事を、交錯した情報の中で顧みなかったらしい。翌日早朝からはじまった戦いは、増員した北軍が損耗した南軍を押しまくり、ボーリガードは午後2時半過ぎに撤退を命令することになる。 .1862年6月26日〜7月1日 七日間の戦い −東部戦線− マクレラン vs. リー★ 首都リッチモンドに肉迫する北軍に対し、リーは起死回生の大博打を打つ。それは敵将マクレランの慎重さを逆手にとり、リッチモンド前面には最低限にも満たない兵力を残し、北方からのジャクソンの援軍をも得て左翼で大攻勢を行うというものであった。攻勢予定時日は26日であったが、ジャクソン軍が到着せず、A・P・ヒルがじれて攻撃を行って撃退される。しかしマクレランは正面の陽動作戦に惑わされ、結局27日の大攻勢を許してしまった。 マクレランは、将兵の反対を押し切って全軍にジェームズ川まで撤退する様命令。3ヶ月かけて築き上げた陣地などはすべて捨てる事になったが、防御しつつ戦う事には長けたマクレランはマルヴァーン・ヒルに堅固な砲列を築く。マクレランがこんなに急激に退却するとは思っていなかったリーの作戦計画は具体性に欠け、南軍はマルヴァーン・ヒルの戦いで恐ろしいほどの損害を出すが、結局はマクレランの性格に助けられ、マクレランは撤退。マクレランは総司令官の地位からおろされる事になった。 .1862年9月17日 アンティータムの戦い −東部戦線− ★マクレラン vs. リー 迫る北軍に対して南軍は、防御に有利と見られたシャープスバーグ近辺に、東を向いて半円形に布陣した。ただ、A・P・ヒルの師団は27km南にいてこちらに向かっている。対する北軍マクレランの作戦は、左右の翼を攻撃し、中央に空隙が出来たところを中央突破するというものであった 朝6時のフッカー師団をはじめとして、次々に北軍が南軍の左翼を順番に攻撃しはじめたが、それは戦力の逐次投入以外の何ものでもなかった。強力な火力の下、次々に兵士は倒れたが、リーは予備を投入して戦線を押し返す。中央ロングストリートの戦線で道路を塹壕代わりにしていた兵士たちが北軍の一斉射撃を受け「血塗られた道」となった頃が、予備を使い果たしていた南軍最大の危機であったが、マクレランは予備を投入しない。戦線の南ではバーンサイド将軍が橋に無茶な攻撃を繰り返し、多大な損害を出しており、渡河を成功させた時、南軍にはヒルの師団が到着した。戦線は安定し、日没と共に戦闘は中止されたが、リーは損害の大きさを考えて夜中に退却、北軍はそれに朝まで気付かなかった。 .1863年4月16日〜7月4日 ヴィックスバーグの戦い −西部戦線− ★グラント vs. ペンバートン 4月末、ヴィックスバーグ北方でシャーマンが陽動作戦を行っている間に、グラントら北軍部隊は砲艦隊の支援を受けてブルーインズバーグに上陸。5月1日に南軍守備隊を撃破したのを皮切りにシャーマンの部隊をも得て北軍は悪路を進撃し、12日にはレイモンドで、14日にはジャクソンで、ジョンストンの軍に対し勝利を収めた。 グラントは西方ヴィックスバーグの方へ向きを変え、16日にはチャンピオンズ・ヒルでペンバートンの軍を撃破。敗走する南軍を追って19日にヴィックスバーグを包囲する陣を布いた。18日間に北軍は300kmを行進し、5回の戦闘に勝ち、8,000人を捕虜としていた。シャーマンに敵陣地北方を攻めさせ、2、3度探りを入れた後はじっくり腰をすえて行った47日の包囲戦の末、7月4日にペンバートンは市及び30,000人の守備隊軍をあげて降伏した。前日のゲティスバーグの戦勝に続いて最も重大な要衝を陥落させたこの日は「1776年以来の最良の7月4日(独立記念日)」とも言われている。 .1863年7月1日〜3日 ゲティスバーグの戦い −東部戦線− ★ミード vs. リー 7月1日は北軍が劣勢であった。南軍のヒルとユーウェルは北軍をゲティスバーグの町から追い払う。しかし危ない所で北軍のハンコックは逃げのびた兵を要衝のセメタリー・ヒルに集結させた。北軍総司令官ミードは南と東から到着する部隊をセメタリーの丘陵に沿って配置、南軍はこれを包囲する形で集結する。 翌2日、リーは総攻撃によって北軍の防御戦を後退させるつもりであったが、作戦のために必要な各部隊の連携がまったく得られなかった。しかしロングストリートの行った猛烈な攻撃は南北戦争中最も熾烈な戦闘となり、北軍は大きな損害を被る。だが、ミードは最後まで戦い抜くつもりだった。 3日目、南軍はカルプズ・ヒルからも追い出され、午後1時リーは15,000の兵に、最も弱そうな中央部へ、平原を横切っての攻撃を命じた。だがナポレオン戦争の頃より遥かに威力を増したライフル銃の猛銃火が恐るべき惨状をもたらした。あまりの損害の大きさに南軍は撤退せざるを得なかった。ミードもまた、追撃を命じなかった。 .1864年5月5日〜6日 ウィルダネスの戦い −東部戦線− グラント vs. リー★ リッチモンドへ向かうグラントのもうひとつの目的は、南軍を野戦に引きずり出して雌雄を決する事であった。これに対しリーは、敵を誘い込む様に劣勢の兵を分散配置させた状態から的確に一点に集結させ、移動に手間取る北軍に攻撃をかけて出血を強いるという、並の司令官では到底実施出来ない作戦をとった。 ウィルダネス周辺は低木が密生する道の狭い地域であり、ここを通過中の北軍ワレンの軍団にユーウェルの軍団が襲いかかる。ミードの命令により援軍を得ないままワレン軍団は反撃を行い、大損害を受けたが、3時頃セジウィックの部隊が到着しはじめると南軍の防衛戦が危険になりはじめた。南東のハンコックも加わって南軍の戦線および司令部を脅かすところであったが、翌日ロングストリートの部隊が到着、恐るべき危難の淵にあった戦線を押し返し、今度は北軍全体を崩壊しかねないところまで追い込む。その後、兵らの疲れと夕闇で戦闘は自然に止んでいったが、その夜、膨大な犠牲と屈辱にグラントは泣き叫んだという。 .1864年7月20日〜9月2日 アトランタ攻防 −東部戦線− ★シャーマン vs. フッド シャーマンの進撃に対して遅滞戦術で防戦していたJ・ジョンストン将軍は7月17日、突如解任され、積極攻撃派のフッドが後任とされる。だが、フッドは作戦計画に遅延を来たし、ピーチトゥリー川を渡河する北軍への攻撃に失敗。アトランタは半包囲状態となり、市南東の山からの最初の砲弾で女児が死に、続く無差別砲撃に市民は逃げまどった。7月22日、北軍南方が手薄なのを見たフッドがこれを攻撃し、北軍でシャーマンらに弟の様に愛されていたマクファーソン将軍を戦死させ、もう少しで砲の据え付けられている山を占領するところであった。しかしなんとかそれを死守したシャーマンは、復讐心にも燃えて以後恐るべき冷酷さでアトランタの町への砲撃を続ける。それは最高時で一日5,000発に及んだという。シャーマンはワシントンに申し送った。「占領できるかどうか分からないが、どっちにしても用済みの街しか残りませんね」 9月2日、迂回した北軍がアトランタ市内へ突入、アトランタ全市民は強制退去を命じられ、市内は徹底的に破壊され尽くした。 (『アメリカ歴史地図』のアトランタ攻防戦の地図中に「7月17日、ジョンソンに替わってフッドが指揮」の部分は「7月17日、ジョンストンに替わって……」の誤り) |