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〜分離独立を巡る死闘〜
.1.南北戦争の背景 「南北戦争(The Civil War)」は、アメリカ合衆国が南部と北部に分かれて戦った内戦であり、1861年から1865年までの5年間に両軍あわせて62万人以上の死者を出した。これは今なお、ひとつの戦争における、アメリカ合衆国史上最大の戦死者数である(第二次世界大戦ででもアメリカ軍の戦死者数は40万人)。 南北戦争の原因は、西方の新しい領土に成立していく新規諸州を、奴隷州(奴隷を使役する州)にするか自由州(奴隷を認めない州)にするかで、南北間の勢力争いが生じ、ついに国家が二つに分裂したことによる。 それぞれ独自に発展してきた13の州が連邦を形成し、「アメリカ合衆国」として独立を勝ち取ったのが1776年の事。その後1810年代後半には、統一された憲法のもとに一つの国家としての自覚と国民意識が高まってきていた。 だがその後、北部と南部で経済構造と奴隷への意識の差が大きくなり、それは激しい対立を生み出していく。 北部諸州では、イギリスの産業革命に刺激されて工業が盛んとなり、工業地帯が作られていく。商工業者が多く、先進的で自由な気風を好む性格が形成されていった。対して南部諸州は農業が主であり、特に大農場で黒人の奴隷労働力によって綿花栽培が行われ、保守的な性格が強く、地域共同体に密着した雰囲気を色濃く持っていた。そして農場主は奴隷を使って王侯貴族の様な生活をおくっていたが、これはアメリカ憲法の万民平等思想に真っ向から対立するものであった。 1830年代、その差異から生じる対立はどんどんエスカレートしていった。南北で主張の食い違う経済政策、奴隷制を法律で容認するか否か、自由州と奴隷州の数の均衡の問題……。50年代に入ると議会では殴打事件が起こり、やがて熱狂的な奴隷制廃止論者の一団によって連邦武器庫が襲撃される。 北部人の多くは、「奴隷制は悪である」と確信していた。しかし、それは直ちに武力行使を意味するものではなく、後に大統領になり「奴隷解放宣言」を発布するリンカンも、「即時奴隷制廃止」などという事を考えていたわけではなかった。むしろ「連邦(アメリカ合衆国)が二つに分かれるのを見るくらいなら、奴隷制を容認した方がまし」とも思っていたのである。 だが、南部人の不安は対立の中で極度に高まっており、もはや冷静な判断は不可能であった。北部の世論は南部を非難し、ついには武力まで使いつつあるではないか。南部諸州は奴隷制なしでは崩壊するしかない。だとしたら、もともと「州」こそが基本単位であるアメリカにおいては、奴隷制を維持する為に南部諸州が「連邦」から脱退することに、何の不都合があろうか? 1860年11月6日の大統領選挙で、奴隷制廃止を党是とする共和党からリンカンが当選を果たした。それを見た南部の7州は次々に連邦を離脱し、「南部連合(正式にはアメリカ連合国)」を結成した。 しかし、これは北部人と大統領リンカンにとっては、許しがたいことであった。平和のうちに分離してもよいとは言わなかった。州の権利を優先させて分離することを許せば、いずれアメリカ合衆国は次々に州単位で分裂し、連邦の存在は地上から消滅してしまう。 1861年3月4日、リンカン大統領の正式就任を迎え、状況は一触即発であった。最初の砲声は4月12日、南部に取り残された形となった連邦側のサムター要塞への攻撃で轟いた。36時間後に要塞の守備隊は降伏。ここに、5年間に及ぶ南北戦争の火蓋が切られたのである。 .2.開戦前の見通し 南北戦争が始まった時、ヨーロッパのすべての軍事専門家は、リンカン大統領は「不可能な仕事」に取り組んだ、と思った。 なるほど、北部と南部連合を比べた時、北部の経済的優位は圧倒的であった。人口は北部が2200万人に対して南部は900万人。工業生産は4:1、食糧生産は2:1で北部が優位であった。南部が北部に経済的なもので優越していたのは綿花だけであった。 だが南部が目指した「分離独立」という事の性質を考えると、事は違ってくる。それまでの歴史上、もっと不利な条件で独立を勝ち取ったケースはいくらでもあった。なぜなら、独立を達成しようという側は独立を阻止しようとする側が疲れてしまうまで自分の領土を守りさえすればいいのだが、独立を阻止する側はその地域を完全に征服しなければ目的を達成し得ないからである。 南部人は、まったく完全に「自分たちの生活を守る為に」戦うであろう。だが北部人たちは、「連邦維持(すなわち、合衆国がひとつであること)」や「奴隷解放」といった、どちらかと言えば曖昧模糊としたものの為に戦うというのである。士気の点で、この差は大きい。 将校の質においても、南部は北部よりも大きく勝っていた。というのは、南部の農園経営者らはその息子たちを士官学校におくることが誇りとなっており、軍人が北部よりもはるかに尊敬される社会的地位を占めていたからである。一方、商工業者を中心とする北部人には個人主義者が多く、軍隊を好まない性格の者が多かった。戦争の当初、まったく戦争に対する準備が(両軍で)欠けていた事を考えると、この差は大きかった。 だが、リンカンは考え違いをしていた。彼は、この戦争は短期で連邦(北部)の勝利に終わると考えていた。また、もう一つの誤りは、彼が「連邦からの分離、独立を望む南部人の意志はそれほど強くはない」と考えていた事であった。リンカンにとって、アメリカ合衆国は素晴らしい理念に基づいて作られた、自由と民主主義の国であり、絶対に守らなければならない、つまり、二つに分裂させてはならないものであった(この考えは徐々に共感を得て、南北戦争を勝利に導く原動力のひとつとなる)。 だから、南軍がまったく手強い敵である事、そして南部のナショナリズムが予想していたものよりも強固である事が分かってくるにつれて、リンカンの苦渋は大きなものになった。だがリンカンは、この時期のアメリカにとって、ほとんど神からの賜物と思えるほどに優れた力量と精神の持ち主だった。彼は忍耐強く、すぐれた判断力で(色々と思うままにならない事はあったが)連邦を指導し、連邦が分裂する事を防いだのである。 3.1861年4月17日〜27日 ワシントンの危機 サムター要塞陥落の翌日、4月15日にリンカンは75,000の義勇軍の召集を命じた。これを見て、奴隷州でありながらまだ南部連合に加わっていなかったヴァージニア州は決意を固め、4月17日に連邦を離脱して南部連合に加わった(続けて3州が南部連合に加わって、最終的に南部連合は11州)。地図を見てみれば分かるが、首都ワシントンはヴァージニア州に接している。のみならず、ヴァージニア州と共にワシントンを挟む様にして位置するメリーランド州も、実は奴隷州であった。 4月17日のうちにヴァージニア州民兵は行動を起こし、ワシントン北西の重要拠点占領に向かう。この時、ワシントンを守る軍隊は皆無であった。メリーランド州が南部連合に加わる事態になれば、ワシントンは完全に孤立してしまう。リンカン大統領はメリーランド州が南部連合に加わらない様に、あらゆる政治工作をした。25日になってようやく北部諸州の部隊が鉄道でワシントンに到着しはじめ、27日にはようやく10,000に達した。メリーランド州の連邦脱退派も、北部諸州の南部弾圧の決意が固くなるのを見てしだいに衰えた。 こうして首都ワシントンの危機はどうにか回避された。南北戦争では「首都陥落=敗戦」というわけではなく、むしろ交通の要衝をおさえる事による戦力の分断や物資の獲得・破壊、戦争の帰趨によって左右されるであろう各州の動向という事の方が大事であった(実際、南軍は直接ワシントンに向かうよりはむしろ、まずその北方のペンシルヴェニア州に侵攻した)が、北部の首都ワシントンと南部連合の首都となったリッチモンドはわずか170kmしか離れておらず、その間およびその周辺で熾烈な戦いが繰り返されたのである。 この東部戦線ではシーソーゲームが続く。これに対して、もう一つの主要戦線となった西部戦線(ミシシッピ川流域とその周辺)では北軍が優勢に勝ち進み、ついにはそこから南部連合の後背地まで侵攻する事となる。 また、この戦いでは戦史上はじめて、鉄道や電信が大きな意味を持つことになった。鉄道輸送は戦争の帰趨を決定する。戦いは重要な鉄道の結節点をめぐって行われる事が多かった。北部は南部に比べて鉄道網が発達しており、部隊の戦線間の移動も容易であった。 4.1861年4月19日 アナコンダ作戦の開始 ワシントンが危機的状況にあった4月19日、リンカン大統領は南部連合の全海岸線を封鎖するよう命じた。これは、連邦陸軍総司令官スコット将軍が立案したいわゆる「アナコンダ作戦」によるものであった。アナコンダとは、ワニをも絞め殺すという水棲大蛇のことである。 スコット将軍は75歳にもなる老人で、肥満して多くの病いを抱えていたが、合衆国のために画期的な戦略を世に残した。それは経済封鎖の概念であり、優れた海軍力を使って大西洋岸とミシシッピ川流域を掌握すれば、自然に南部を屈服させられるというものであった。 この作戦はその効果の遅さから一般に人気のある作戦ではなかったし、当初は包囲網が充分でなかった事もあってなかなか効果もあがらなかった。しかし、時間がたつにつれ、南部は海上封鎖で輸入ルートを絶たれ、後には陸上でもシャーマンの焦土作戦が加わったため、経済的に屈服せざるを得なくなったのである。逆に言えば、アナコンダ作戦がなければ、南部連合の力はまったく恐るべきものであったのだ。 5.1861年7月21日 第1次ブル・ランの戦い −東部戦線− マクダウェル vs. ボーリガード★ スコット将軍の深謀遠慮に対して、北部人の一般の見方は「リッチモンドを占領すれば戦争は終わる。それには90日あれば充分だ。」というものであった。新聞や人々は「早く戦争をしろ!」「リッチモンドへ進め!」とわめき立てた。スコット将軍や閣僚の何人かは、封鎖作戦を厳重にすればやがて南部は降伏すると主張したが、政治的に世論の動きを考慮したリンカンは、南部への進撃を命じた。 6月26日、リンカン大統領はマクダウェル将軍に対して、首都ワシントンの南西48kmのマナサス駅周辺に集結している南軍のボーリガード将軍麾下の軍22,000を攻撃し、その後続けてリッチモンドへ進撃するよう命令。7月16日、マクダウェル将軍率いる北軍30,000の兵が、マナサス駅へ向けて出発した。北軍のうしろには、連邦軍が反乱軍を破るのを見ようと、乗馬・徒歩の見物人や、着飾った夫人連れでピクニックのバスケットを持って馬車に乗り込んだ議員などが付き従っていた。 7月21日にそれらの観衆の前で決戦が行われた(第1次ブル・ランの戦い、または第1次マナサスの戦い)が、両軍の兵士・将軍たちとも戦闘に慣れておらず、それどころか両軍の軍旗・軍服までもまちまちで区別がよくつけられなかったので、まったくの大混乱が起こった。両軍とも夢中のうちに数時間戦闘が続けられ、そのうち北軍の隊列が退却をはじめた。それはすぐさま大壊走となった。兵士たちは我勝ちにワシントンへ逃げ帰り、南軍がワシントンを目指して猛追撃を行っているだのの流言飛語が飛び交った。 南軍が勝つことが出来たのは、この戦いにおいて固い守備で「ストーン・ウォール(石の壁)」とあだ名されたジャクソン将軍の働きと、ジョセフ・ジョンストン将軍が首尾良く鉄道で増援隊を送り込んだからであった。しかし実態としては、むしろ負けた北軍よりも勝った南軍の方が混乱していたのである。ワシントンへ追撃などは、不可能な事であった。 この戦いで北部は冷水を浴びせられた様なショックを受けた。北部人は奮起して、長期戦の為の準備にとりかかった。リンカンはブル・ランの敗戦の4日後に、ヴァージニア西部の作戦に成功し一躍国民的人気を得ていたマクレラン将軍に連邦軍立て直しの任を与え、多数の長期志願兵、大量の資金と装備を供給した。彼は軍隊の訓練と組織化に長けた、軍隊強化にうってつけの人物であった。 南部の方はと言えば、これで南部の優勢が証明されたと喜び、北部は分裂し、諸外国は南部の独立を承認するだろうと思いこんで、何もしなかった。南部の基本方針が、北軍を撃退する事によって独立承認が得られるだろうというものであり、それに、軍事的にも混乱が大きく北部への侵攻は現実的ではなかった。 一方マクレランは、ひたすら軍隊の訓練と組織化に余念がなかった。ブル・ランの戦いから数ヶ月がたち、彼は11月1日にはスコット将軍の辞任によって、総司令官に任命される。しかしマクレランには、敵の兵数を絶えず過大に見積もり、自軍に恐ろしく潤沢な兵員・装備がなければ動こうとしないという欠点があり、南部侵攻の要請があっても重い腰をあげようとしなかった。リンカンもしびれを切らして大統領令により2月22日の総攻撃を一方的に要求するほどだったが、マクレランがようやく行動を起こしたのは、1862年の3月の事であった。 6.1862年4月6日〜7日 シャイローの戦い −西部戦線− ★グラント vs. ボーリガード 西部戦線では、それより早く1862年2月6日にはヘンリー要塞を、2月16日にはドネルソン要塞を、グラント将軍が攻め落とすという戦功を得た。このニュースは意気阻喪していた北部に精神的勇気を与えた。グラントは勢いに乗じて敵に休むいとまを与えず攻撃を続ける事が重要である事を真に理解していたが、無能な上官ハレック将軍はグラントの成功をねたんで彼に追撃を許さず、無用な方面への攻撃を命じた。そうやって北軍が時間の浪費をしている間に、南軍は兵力を集める事が出来た。ハレックはその後やっとグラントが望む方向への進撃を許したが、ビューエル将軍の軍が合流してからという条件付きであった。 ところがこのビューエル将軍というのが行動ののろい将軍であって、グラントは合流を待っていたシャイローの地で何の備えもないまま、南軍の攻撃をいきなり受けてしまった。これがシャイローの戦い(またはピッツバーグ・ランディングの戦い)である。 南軍の指揮官はボーリガードとアルバート・ジョンストンの両名将であった。南軍の巧妙な指揮のもとでの突進に対して、グラントは揺るがぬ冷静さで指揮し、北軍兵士の勇敢さは敗走を防いだ。しかし、12時間にも及ぶ戦いのあと、4月6日が暮れる頃には北軍はどう見ても敗北の淵にあった。普通の将軍なら、退却して残余の兵力を全滅から救おうとしたはずである。だがグラントは普通の将軍ではなかった。ビューエル軍の一部などの増援を得て翌日の朝、グラントは猛然と反撃に転じた。ボーリガード将軍は10時間の死闘の後、南軍を撤退させた。 シャイローの戦いは北軍の勝利となったが、その損害は大きかった。北軍が13,000以上、南軍が11,000の損失であった。グラントが備えを怠った事が新聞紙上で誇張されて、グラントはむしろ無能呼ばわりされた。リンカン大統領にはグラントを免官する様に政治的圧力がかけられたが、リンカンは「私はこの男を手放せない。あれは戦う男だ。」と答えた。 7.1862年3月8日〜4月25日 ハンプトン・ローズの海戦 −海上戦闘− モニター vs. メリマック 1862年に入って海上経済封鎖はようやく効果を持ち始めた。南軍は艦船の絶対量でも劣勢で、数の劣勢を補う為に甲鉄艦メリマックを建造。だがこの情報を入手した北軍の方でも甲鉄艦モニターを建造していた。 1862年3月8日、ヴァージニア州南東端の天然の錨地ハンプトン・ローズで甲鉄艦メリマック号は次々と北軍の木造鑑を血祭りにあげていたが、翌日、北軍の甲鉄艦モニター号と戦闘になった。史上初の甲鉄艦同士の戦いである。戦術的には引き分けに終わったが、メリマック号の自由な行動を妨げた事によって、北軍にとっては続く半島作戦が可能になった。 4月25日には、ミシシッピ川河口の南部第二の都市ニューオーリンズが北軍艦隊の手に落ちる。続けて艦隊はミシシッピ川を遡って封鎖を完璧なものにしようとした。結節点であるヴィックスバーグは1863年7月4日まで落ちなかったが、それまでに北軍はじわじわと南部への封鎖を固く締めあげていく。 8.1862年3月〜7月 半島作戦 −西部戦線− マクレラン vs. リー★ 東部戦線では、3月末にいよいよマクレランが110,000の軍勢をもってリッチモンドへの攻勢を開始した。ただしそれは、陸上で真正面からリッチモンドをつくというものではなく、海路リッチモンド南東のヨーク半島に上陸し、そこから北西へ進撃しようというものであった。対する南軍は65,000、指揮するのは名将ジョセフ・ジョンストン。 しかしむしろ危機に瀕したのは北部の首都ワシントンの方であった。マクレランが度を超した慎重さでのろのろと行動している間に、南軍のストーンウォール・ジャクソン将軍がワシントンの西側のシェナンドア渓谷を縦横無尽に駆け回り、続けざまに4度の戦勝(5月8日〜6月9日)を得て北軍に首都防衛を余儀なくさせ、戦史に不滅の名を残す。 しかしヨーク半島ではさすがの兵力の差で5月末までにマクレランがリッチモンドまで10数kmのところまで進撃し、負傷したジョセフ・ジョンストン将軍に代わってリー将軍が指揮を引き継いだ。だがマクレランは南軍の兵力を過大に誤認し、要害の地を占めたのち好天を待って進撃しようと考え、それから一ヶ月かかって数kmしか前進しない。 6月26日、シェナンドア渓谷からジャクソン将軍がリー将軍のもとに合流し、リー将軍は先手を打って反撃を開始した。7月1日まで続く、「七日間の戦い」である。マクレランは巧妙に防戦し、自軍が受けた損害以上の損害を南軍に与えたが、撤退は余儀なくされた。結局マクレランは、リッチモンドまであと7kmの地点にまで迫りながら、8月にはヨーク半島から完全に撤退したのである。 9.1862年8月29日〜30日 第2次ブル・ランの戦い −東部戦線− ポープ vs. リー★ 7月9日、リンカン大統領はマクレランを北軍総司令官の地位からおろし、ハレック将軍をその地位に任じた。西部戦線でグラントの邪魔をするしか能のなかったあのハレックである。彼はまた、西部戦線から子飼いの将軍ポープを呼び寄せ、南部侵攻軍の指揮をとらせた。ポープは悪い意味で常識を欠いた人物で、軍事的力量にもとぼしかった。 ハレックとポープは、ワシントンからリッチモンドへの正面進撃作戦を行おうと考え、8月半ばに兵力を集中し始めた。これに対してリーは、大胆不敵な戦法をとった。すなわち、はるかに優勢な敵軍を前にして兵力を分割してジャクソンに預け、ポープをおびき出してこれを叩こうというのである。 この戦いはマナサス駅北方で行われ、第2次ブル・ランの戦い(または第2次マナサスの戦い)と呼ばれるが、リーとジャクソンの恐るべき手際のよさの前にポープは失策に失策を重ね、北軍は惨敗を喫した。またもや北部は致命的危機に陥った。ハレックは司令官の地位を投げだし、リンカンは再度マクレランを司令官に任じた。9月2日であった。 10.1862年9月17日 アンティータムの戦い −東部戦線− ★マクレラン vs. リー 北部が直面した危機の中で、この時期が最も恐ろしいものであった。北軍の建て直しには時間がかかると判断したリーが、間髪おかずにメリーランド州とペンシルヴェニア州へ侵入したのである。ペンシルヴェニア州へ入って55kmほどのハリスバーグという町は鉄道の重要な結節点にあたっており、そこを占領できれば北部は東西に分断される事になる。また、経済封鎖によって南部で手に入りにくくなった食糧や靴や衣類を獲得すること、戦勝によってメリーランド州を南部に引き入れる事も企図されていた。メリーランド州が南部連合に入れば、首都ワシントンは孤立する。 この危機に際して、マクレランは偶然にもリーの作戦命令書を手に入れていた。だが例によって度を越した慎重さから行動開始が遅く、南軍撃滅の千載一遇のチャンスを逃しはしたが、攻勢分断の為に70,000の軍を率いて進撃。 攻勢進路が背後で分断されそうになり、リーは急遽来た道を戻らねばならなかった。分かれて行動していたジャクソンとは何とか合流出来たが、それでも北軍より明らかに劣勢な兵力の状態で攻撃を受けざるを得なかった。 アンティータムの戦い(またはシャープスバーグの戦い)は、南軍36,000のうち死傷者10,700、北軍は50,000弱のうち死傷者12,400を出す南北戦争最大の血みどろの戦いとなった。南軍は戦術的には勝っていたと言えるが、あまりにも損害が大きすぎた。マクレランは潤沢な予備を持ってはいたが、グラントなどとは違い、翌日の戦闘再開を拒否。リーは退却、危機は去った。 アンティータムの戦いは、第2次ブル・ランの戦いののち高まった、諸外国による南部独立承認の動きを粉砕した。続けてその5日後にリンカンは、奴隷解放予備宣言を布告した。これは1863年1月1日付けで反乱州の奴隷を全て解放するという宣言である。実質的効果はともかく、政治的にこの布告は抜群の効果を持った。以後、諸外国は南部独立承認など出来る雰囲気ではなくなったのである。 11.1862年12月13日 フレデリックスバーグの戦い −東部戦線− バーンサイド vs. リー★ アンティータムの戦いの後、マクレランは命じられた南部への進撃を拒否。しかし再度一冬を無為に過ごす事は、政治的に許容出来ない。リンカンはマクレランを解任し、マクレランは二度と復職する事がなかった。新しく司令官に任命されたのはアンティータムの戦いで名をあげたバーンサイドであったが、司令官の任はバーンサイドの手には余るものであった。 バーンサイドはリッチモンドへ向けて進軍し、その中間点でリーの75,000の兵力とぶつかった。このフレデリックスバーグの戦いは北軍が113,000の兵力で南軍を攻撃したが、正気を疑わせるほどの愚かさをもってバーンサイドは林の中から側面攻撃する事を拒み、正面攻撃をしかけた。北軍兵士の2列横隊が、さえぎるもの一つない平原を横切って突進すること6度、南軍の銃火の前に戦場はまさに悲惨の一言となった。 北軍の死傷者12,653、南軍の死傷者5,309。12月15日、両軍は死者を葬り、戦闘に生き残った負傷兵を交替させる為の短い休戦に同意した。リンカン大統領はある友人に「我々はいまや破滅の一歩手前だ」ともらした。 12.1863年4月16日〜7月4日 ヴィックスバーグの戦い −西部戦線− ★グラント vs. ペンバートン 西部戦線ではシャイローの戦い以後、いくつかの戦闘が行われ、ミシシッピ川への北軍の締め付けは厳しさを増していたが、どうしても抜けない難攻不落の要衝があった。それがヴィックスバーグである。 1863年当初のヴィックスバーグ近辺の北軍の状況は、普通の戦略家ならばいったん撤退して新しい作戦ラインを構築しようとしただろうものであった。だがグラントはここでも破天荒かつ困難な方法を選んだ。それは、ヴィックスバーグを越えて南軍の支配地を走破し、後詰めの部隊を破って後ろからヴィックスバーグを包囲しようという作戦であった。 4月、まずはヴィックスバーグからの猛砲火をかいくぐって上陸援護用の砲艦隊をミシシッピ川下へ移動させる必要があった。部隊の上陸後は、行軍に恐ろしく骨の折れる地域を、わずかの装備だけを持って走破。しかしグラントの軍は敵を次々にうち破った。兵力的に劣勢であったグラントは、いざ敵とぶつかる時にはいつも敵より多い兵力を持っていたが、これは彼が天才的な戦術家であった証拠である。 後詰めのジョセフ・ジョンストンは動けなくなり、ヴィックスバーグ守備隊の指揮官ペンバートンが繰り出す部隊も撃破され、5月19日からヴィックスバーグの包囲戦が始まる。ペンバートンは47日間の包囲戦の末7月4日、降伏する事になる。その日は、東部戦線の天王山、ゲティスバーグの戦いでリーが敗退した次の日であった。 13.1863年5月1日 チャンセラーズヴィルの戦い −東部戦線− フッカー vs. リー★ 一方東部戦線では、バーンサイドに代わって大言壮語のフッカーが総司令官に任命された。まったく、北軍は東部戦線で人材に恵まれなかった。 5月1日(西部戦線でグラントの迂回作戦が始まっていた)、チャンセラーズヴィルの戦いはフレデリックスバーグの西方数kmの荒野で行われた。まず初戦、ジャクソンが頑強な抵抗によって北軍に陣形の立て直しを余儀なくさせると、リーは敵前で兵力を分割、半数以上をジャクソンに与え、迂回して敵右翼を攻撃させた。ジャクソンの軍が北軍右翼前に展開をはじめた頃、その向こうでは北軍兵士が夕食を作ったりトランプをしたりしていた。 攻撃は全くの奇襲となった。北軍は全滅をまぬがれるのがやっとで、3日後にフッカーは撤退。だが、南軍が勝利の影で支払った代価はあまりにも大きかった。ジャクソン将軍が味方兵士に敵騎兵と見誤られ、撃たれたのである。手当を受けたが重傷で、全軍兵士がその回復を祈り、リー将軍などは夜を徹して「戦うごとく祈った」という。しかし肺梗塞を起こして5月10日、ジャクソンは帰らぬ人となった。これは南軍痛恨の痛手であった。 14.1863年7月1日〜3日 ゲティスバーグの戦い −東部戦線− ★ミード vs. リー 南軍は再度、ペンシルヴェニア州への侵入を企図した。それは軍事的にも政治的にも博打に等しいものではあったが、南部が勝利を得ようとすれば賭けるしかなかった。 リーは6月3日に76,000の兵力をもって北方へ向かって行動を開始、27日には全軍が、メリーランド州を越えてペンシルヴェニア州に入った。その翌日、北軍では新しい司令官としてジョージ・G・ミードが任命された。今度の任命は間違いではなかった。ミードは現実的な判断力を有し、めざましいことをしそうにもない代わり、馬鹿げた事も絶対にしないという人物であった。 6月30日に両軍の一部がゲティスバーグ近郊で接触したのは偶然からであったが、ゲティスバーグは重要な道路の結節点にあり、ひきよせられる様に両軍の部隊が集結し、はからずもここで大規模戦闘を引き起こす事となった。南軍70,000、北軍93,000。 7月1日、2日は南軍の方が優勢であった。だがミードは、部隊を恐ろしく巧みに移動させ、要衝を守り抜く。3日午前にも南軍は決定的な勝利を得られないでいた。ジャクソンがいない事は、作戦の柔軟性を失わせていた。午後、リーは勝利のために、3個師団に対して平原を横切って北軍の中央部へ正面攻撃をかける様命じた。これは、フレデリックスバーグにおけるバーンサイドより拙劣な戦法であった。15,000の南軍兵士が恐るべき銃砲火の中を進み、次々に倒れた。南軍の死傷者は28,000を数え、リーは退却を選択せざるを得なかった。一方、北軍の死傷者も23,000に達していた。 リーは自らの過ちを認めないわけにはいかなかった。最大の賭け、最大の戦闘に敗れたのである。もはや二度と南軍がワシントンを脅かす事は出来ないであろう。ゲティスバーグから退却をはじめた7月4日には、西部戦線でヴィックスバーグが陥落。経済封鎖はますます強くなり、南部はあらゆる物資に不足をきたしていた。南部の勝機は永遠に失われたのだ。リーは南部連合の大統領デーヴィスに南軍総司令官の辞任を申し出たが、彼以上の人材を見つける事は不可能だった。 15.1864年5月4日〜 ピーターズバーグへの道 −東部戦線− グラント vs. リー 北部にとって、1863年は西部戦線のチャタヌーガの戦勝などで暮れ、1864年は明るい新年となった。3月9日にはグラントが総司令官に任命され、以後彼は東部戦線で指揮をとることになる。彼がすべきことは、リーを撃破し、リッチモンドを占領する事であった。 だがリーは、グラントが西部戦線で相対したどんな将軍ともまったく出来の違う軍人であった。しかもリーに残された唯一の方法は「北軍に多大な出血を強いて、戦争継続を諦めさせること」である。リーの持つ兵力64,000に対してグラントは100,000の兵を率い、ウィルダネスの密林を通って進撃を始めたが、リーのウィルダネス作戦はグラントに17,700もの損害を与え、南軍の損害はその半分にも満たなかった。この戦いはまさに、北部の勝利への意欲を危うく粉砕するところであった。 だがグラントは不屈であった。続けてスポットシルヴェニアで12,200、コールド・ハーバーで12,000と、戦力との比率では南軍とほぼ同じながら、数の上では遥かに多い損害を出しつつ、リッチモンドへ向かって進撃した。それは、北軍兵士にとって恐怖の日々でもあったが、南軍は南軍で、グラントの前では勝利が何の意味も持たない事を思い知らされざるを得なかった。 6月3日の時点で北軍はリッチモンドまで15kmの地点に達していたが、リーの軍隊を撃破せねばリッチモンドの占領はおぼつかない。グラントはリッチモンドの南方25kmの場所にあるピーターズバーグを占領してリーの補給を断つ作戦を立てたが、危ういところでリーはピーターズバーグに突入し、その機会は失われてしまった。もはやグラントの軍には、ピーターズバーグを一気に落とすだけの兵力も火力もなかった。彼はピーターズバーグのリー軍を包囲する作戦に出た。包囲戦は6月18日からその後9ヶ月の長きに渡って続く。しかし、この選択は正しかった。なぜなら、動けないリーは危険ではなかったからである。その間に、シャーマンが南部連合軍の力をがたがたに破壊する事になる。 16.1864年5月4日〜9月2日 アトランタへの道 −西部戦線− ★シャーマン vs. ジョセフ・ジョンストン 東部戦線でグラントが血みどろの進撃を始めた5月4日、西部戦線ではシャーマンがアトランタへの進撃を始めた。アトランタは南部連合最大の軍事拠点であり、軍事施設に打撃を与える事が目的であった。 シャーマンの兵力は100,000。対する南軍指揮官はジョセフ・ジョンストン、兵力は59,000。彼は巧妙な遅滞戦術でシャーマンの進撃をよく阻んだが、シャーマンの方でもそれに匹敵する巧妙さで南軍に損害を強いていった。7月17日には北軍はアトランタまで13kmの地点に達し、デーヴィス大統領にジョセフ・ジョンストンは解任されてしまう。 アトランタは防備を固めており、半包囲状態が続いた。北軍の砲弾がアトランタに降り注ぎ、無差別砲撃に市民は逃げまどった。9月2日、北軍はアトランタ市街へ突入。南部の心臓部は徹底的に破壊され尽くした。 17.1864年11月15日〜 シャーマンの焦土作戦 −南部後背地− ★シャーマン vs. ジョセフ・ジョンストン ピーターズバーグでリーが包囲されている間に、シャーマンは次なる焦土作戦の為の行進を始めた。ジョージア州、サウスカロライナ州、ノースカロライナ州という、南部の主要州であり後背地である地域を、とにかく破壊して進むのである。 11月15日、シャーマンは62,000の兵に100kmの幅をとらせ、まず大西洋岸への進軍を開始した。作物、家畜、工場、鉄道などを手当たり次第に略奪し、破壊していった。シャーマンは書いている。「われわれは土地を荒らし尽くし、牛馬は小麦やとうもろこし畑をあとかたもないほど食い尽くした。人々は我らの行く前に姿を隠し、後には荒涼として何もない。戦争とはどんなものか、知りたければ我々の後についてくるがよい。」 12月21日には大西洋岸に到着。1865年1月には北に向かって出発し、3月25日までに680kmを進軍、ジョンストンの抵抗を蹴散らして焦土作戦を行った。南部諸地域はぼろぼろの状態となり、シャーマンは南部人に深く恨まれる事になった。 18.1865年4月9日 南軍降伏へ −東部戦線− ★グラント vs. リー 1865年3月には、ピーターズバーグのリーの兵力は54,000になっていた。対してグラントの兵力は115,000であった。4月2日、グラントはついに南軍防御陣の中央を突破した。リーに残された唯一の望みは、退いてジョンストンと合流する事だけになった。 その日の夜にリーの軍は密かにピーターズバーグとリッチモンドから脱出、リッチモンドには南軍兵の手によって火が放たれた。リーは30,000の兵を率いてなおも西へ逃れたが、4月9日にはシェリダン将軍によって西と南への退路も断たれてしまった。もはや抵抗は不可能となった。リーは、タオルで代用した白旗を掲げさせて、グラント将軍との会見を申し込んだ。 4月9日午後、リッチモンドの西120kmのアポマトックスという町で、リーとグラントが会談した。リーは正装で、グラントはいつものだらしない格好であったが、かくも長い間勇敢に戦ってきた相手が降伏したので、悲しみに心もうち沈んでいたという。昔のメキシコ戦争時代の思い出話などをした後、降伏文書が取り交わされた。南軍の降伏を聞いて、北軍兵士たちは気が狂った様に喜び、はしゃいだ。グラントは言った。「戦争は終わった。反乱軍は、またわが国民になったのだ。」 リンカン大統領は南部再建の為に寛容な政策を発表した。だが4月14日、リンカン大統領は南部出身の俳優に暗殺される。多くの人がその死を嘆き悲しんだが、中でも黒人たちの悲しみは筆舌に尽くしがたいものだった。南部の再建も中途半端なものにならざるを得なかった。 南北戦争は、アメリカ合衆国の為にはどうしても必要な戦いであったと言えるだろう。リンカンが戦前に言った様に、「分かれた家は立つ事が出来ない。半ば奴隷、半ば自由の状態で、この国家がながく続くことはできな」かったのだ。だが、南北戦争を引き起こす原因となった問題は、今でも完全に解決されているとは言えないのである。 |