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どーも昔から「暴落」「大恐慌」というものに興味があったのですが、これは何なんでしょうね。「バブル」という言葉に興味がある、というわけでもない。それよりは、「がくっと下がる」事の方に興味があるんですよ。 私は経済学を習った事がないので、何でも独学、良い資料も知らないんですが、先ず最初に調べる事が出来たのは、1929年の世界大恐慌に就いてでした。『大恐慌のアメリカ』(林敏彦 岩波新書)という本を見つけたのがきっかけです。 それは、「第二次世界大戦の最も大きな原因は世界大恐慌(ひいては大恐慌を起こす事になった理由の方)にあるんじゃないの?」という疑問に或る程度の答えを出そう……という試みでもあったのですが、その本を読んでいるうちに、ますます「大暴落」「大恐慌」への興味が湧いてきました。 何故、市場は「大暴落」を起こすのか? 「大恐慌」を引き起こす理由とは何か? さて、「大暴落」と言えば、もしかしたら太古の昔からあるのかもしれませんが、或る程度有名である(だろう)ものと言えば、先ず3つ。 1637年オランダで起こった「チューリップ事件」 1720年イギリスで起こった「南海泡沫事件」 1929年ニューヨークに端を発した「世界大恐慌」 (他にあったら、是非是非教えてくださ〜い!) 世界大恐慌に就いてはいざ知らず、チューリップ事件や南海泡沫事件に就いては、概説書以上の資料を持っていなかったのですが、つい最近出された『世界史の中から考える』(高坂正尭 新潮選書)という本の中に、少しだけ詳しく書かれているのを見つけて、早速買って帰りました。 いつまでも資料集めで閉じこもっているのも意味のない事ですし、ここに書けば資料を詳しく知っている人がいるかもしれないし、自分の勉強を兼ねて、或る程度何かを書き始めようと思います。 お目汚しかもしれませんが、どうぞお付き合い下さい。 では、先ずネーミングだけは美しい(可愛い?)「チューリップ事件」に就いて! ◆チューリップ事件(1637年 オランダ) 1634年から1636年にかけて、オランダでチューリップの球根の市場への投機熱が異常に高まりました。 時は、オランダがヨーロッパ最大の金融市場であったアムステルダムを擁し、イギリスと植民地戦争を繰り広げていた頃。1世紀ほど前にもたらされたチューリップの栽培が流行し始め、栽培業者は変わった品種を求めて改良を競い、バイヤーはそれらの品種が出る先からそれらに法外な値をつけていったのです。 その値段ですが、今の日本円に換算する事は難しいのでそれはせず、幸い具体的な物の値段との比較があるので、それを持ってきましょう。 以下は、Viceroyという種類の球根1個を得る為に、ある農夫が引き渡したものとその換算された値段の一覧です。Viceroyという球根は、その時2,500グルデンの価値があるとされていました。 小麦4トン 448グルデン ライ麦8トン 558グルデン 太った雄牛4頭 480グルデン 太った豚3頭 240グルデン 太った羊12頭 120グルデン 雄牛の頭二つ分の葡萄酒 70グルデン ビール4トン 32グルデン バター4トン 192グルデン チーズ450Kg 120グルデン ベッド1台 100グルデン 服1着 80グルデン 銀杯1個 60グルデン ─────────────────── 計 2,500グルデン また、Semper Augustusという種類の球根には、5,500グルデンという値段が付けられましたが、この球根に対してある人は4,600グルデンの金と新しい馬車と二頭の葦毛の馬と完全な馬具を引き渡し、またある人は12エーカー(約5万平方m)の土地を引き渡したといいます。 このSemper Augustusという品種の球根を手に入れたある商人は、部屋にその球根を置いていました。ある時彼にある品物を持ってきた船員にニシンの朝食をご馳走したのですが、その後で球根が一つ足りなくなっている事に気付きました。船員に聞いてみると、彼は部屋に置いてある球根を見て、たいして重要なものとは考えず、またそれをタマネギだと思い、気付かれないようにその球根を取ってニシンと一緒に食べてしまった、というのでした。 ブームの最高潮の時には、球根1つに、当時の平均的な労働者の年収の10倍の値段が付いた、という事です。今の日本の平均的な労働者の年収を400万円くらいだとすると、球根1つに4000万円くらいの値段がついたわけですね。 しかし前記の様にチューリップの球根を自分で持って、この投機に参加しているのはまだマシな方で、現物なしにこの投機に参加している人がたくさんいました。 たとえば、チューリップの球根の現物でなくその契約書の売買が行われていました。つまり、球根を買うのではなく、球根を「何年何月何日に入手出来る」という契約書の売買が行われていたのです。そして、その契約書を買って、高くなった時に売ればその差額だけ儲かるというのです。それに、この契約書はその時に全額を払うとも限らず、前金を払って残りは将来(儲けた後で)払う、という方法もありました。 また、球根は重量単位で取り引きされていたので、1つの球根の1/2とか、1/4の分の投機も可能でした。それに、実際の所、この契約書にしろ、値段が上がる事は確実なのですから、契約書を買ったら、すぐに他の人にもう少し高く売れるのです。ですから、今その契約書を買うだけのお金がなくても、借金してその契約書を買って、すぐに転売すれば、利子以上の利益が手に入るのです。 これは、少ない金額でも投機が可能であった、という事でもあります。その為、商人や貴族や市民は言うに及ばず、従僕や女中、機械工、船員、農夫、泥炭掘人夫、煙突掃除人、歩兵や古着屋のおばさんなどまでがチューリップ球根の投機に手を出しました。 この新たな投機者の参入が更にチューリップ球根の値を上げさせ、その上昇が更なる投機者の参入を促す……この「仕組み(循環)」が投機を止めどないものにします。 損をする者は誰もいませんでした。最も貧しい人の幾人かは数ヶ月の間に家、馬車、馬を得て、その土地の一流の人物であるかの様に振る舞いました。どの町でも酒場が交換所となり、そこではあらゆる階層の人々がチューリップの球根の取引をし、極めてぜいたくな食事をしながら契約を取り決めました。 そして神話が生まれます。 「誰しもチューリップ熱は永久に続くだろうと思った。そして、世界中のあらゆる所から金持ちがオランダへ注文を出し、どんどん言い値で支払いをするだろうと考えた。」−ガルブレイス 暴落のきっかけは、ガルブレイスによると「分からない」だそうです。恐らく少数の賢明な人や神経質な人がこの投機から手を引き始めた。売り始めたわけです。値段は少し下がったかもしれません。しかしそれより重大な事は、「彼らが去り始めた」事が「皆に分かった」という事だったでしょう。恐慌が起こります。殺到した売りはもはやパニックとなる。チューリップの球根の価格は果てしなき断崖を転がり落ちる様に『暴落』した……。 投機を行っていた人々は、その多くが借金をしてまで参加していました。そうでしょう。儲かる事は確実なのです。ならば、その為に出来るだけ多くのカネをかける事は当然です。 しかし、暴落という結果が事実となった時、彼らに残されたのは、価値のなくなった契約書であり、もっとひどい事には借金の証文書でした。「裕福な商人が乞食同然となり、多くの貴族の家産が回復不能の破滅に陥った」(マッケイ『常軌を逸した大衆的幻想と群衆の狂気』) さて、しかし、何故このチューリップ(狂騒)事件は起こったのでしょう? 言い換えれば、何故彼らは投機に向かったのでしょうか。その理由は、私には4つある様に思われます。 先ず第一の犯人:経済的成功 先ず大きな前提として、経済的成功を収めていた為に資金力に余力があった、という事があります。オランダが経済的に力をつけてきて、支配国スペインからの独立を最終的(実質的)に勝ち取ったのが1609年。しかも、ここからオランダは戦争に力を割かずに経済にのみ力を傾けていく事が出来ました。というのも、1618年〜1648年は30年戦争の頃。他の大国はこの戦争に参入し経済力を疲弊させていく中で、一人オランダは平穏無事でした。まさにこの時期こそ、オランダの経済的成功が開いていく時期だったのです。 第二の犯人:先行きに対する自信 経済的成功は、彼らの自信に繋がりました。彼らは苦闘を勝利で飾り、こつこつと働いて今の繁栄を手にした。多くが新しい発想によって得られた、彼ら自身の勝利であり、オランダの繁栄はこれからであり、これからますます良くなっていく、我々は発展していく、という自信が彼らを包んでいたのです。 第三の犯人:カネあまり この犯人に就いては、その影響の大きさの程は不明です。しかし、世界大恐慌と日本のバブル崩壊にも同じ原因があるので、この原因を殊更取り上げる事にしました。南海泡沫事件などにはこの原因はないかもしれません。 というのは、1635年頃に急にオランダで可処分所得が増大した事、そしてその原因はその頃流行っていた疫病の為らしい、という事です。人口が減った為、一人当たりの資金は増大し、その結果カネあまりを招いたのでしょう。カネあまりは、貯めておけばそんなにリスクはありませんが、「より良い運用先」を求めだすと、リスクが伴いはじめます。 第四の犯人:幻想 ガルブレイスはこの原因を特に重視している様です。ガルブレイスによれば、それは「異常な楽観主義」によって支えられる。投機に参加している人は、自分の成功を自分の頭の良さの為だと錯覚する。「暴落が起きるかもしれない」という警告は、まさに暴落を引き起こすきっかけになりかねない、という彼らに対する悪意から生じていると受け取られるが故に非難だけを浴びて顧みられない。暴落が実際に起きてしまった後の彼らの反応は、その原因が彼らの内部になく、必ずや外部にある筈だという、スケープゴート探しである……。 ただ、これら犯人の引き起こした「暴落」という事件も、高坂氏によれば、「バブルで滅んだ国はな」く、彼らを没落に招く原因となりはしなかった。寧ろバブルは、彼らが成功の途についた証であった。 ガルブレイスによれば、このバブルはオランダを美しい国にするのに役だった。すなわち彼らは、チューリップに高い値段を付ける事をやめ、チューリップをその国土にたくさん植える事にしたからである、と……。 次回は、1720年にパリで起こったミシシッピ会社株暴落事件を扱う事にします。 参考文献: 『世界史の中から考える』高坂正堯 新潮選書 『バブルの物語』ガルブレイス ダイヤモンド社 『西洋事物起源』ベックマン ダイヤモンド社 『クロニック世界全史』講談社 ◆ミシシッピ会社株暴落事件(1720年 パリ) 「ミシシッピ会社株暴落事件」という名前が一般にあるわけではない様なのですが、便宜上この名前を使います。 1716年、パリにジョン・ローという、銀行業をやってみようと目論む男がやってきました。簡単に言えば「イギリスでは殺人容疑者、逃亡した先の新大陸でばくち打ち」だったのこの男が、パリで銀行を設立する権利を与えられたのは、時の摂政オルレアン公フィリップ2世が放縦である上に知性に欠けていたせいかもしれません。またフランスはこの時、ルイ14世太陽王の遺した莫大な負債をかかえていたので、それを解決出来る見込みをジョン・ローから聞いて、それに一も二もなく飛びついたのかもしれません。 とにかく、ジョン・ローは1716年5月2日に、銀行を設立する権利を与えられました。この銀行「ロワイヤル銀行」は、銀行券を発行する権利を与えられ、この銀行券は、望めば金貨と交換する事が出来る建て前で評判が良く、追加発行がされていました。この銀行券は、政府の経常費の支払い及び過去の国庫債務の引き受けの為に用いられました。つまりロワイヤル銀行の銀行券は実質紙幣として流通はするものの、その内実は国の借金の借用証みたいなモンだった、という事でしょうか。 ロワイヤル銀行の設立にあたって600万リーブルの資本金が用意されていたのですが、追加発行にあたってはその裏付けとなる収入源が必要でしょう。この収入源は、噂の「ミシシッピ会社」の設立によって得られる事になっていました。「ミシシッピ会社」はミシシッピ川下流のルイジアナに存在すると考えられていた金鉱の探査を目的とし、1717年にはルイジアナ運営と貿易の独占権を得ました。実はルイジアナに金鉱など存在しなかったのですが、そんな事を疑ってかかる事は全く無用と、当時考えられていたのです。 この会社の株が一般公開されると、爆発的な人気になりました。取引所は「金融的貪欲の歴史を通じて最も激しくすさまじい取引の場となった」とガルブレイスは書いているのですが、惜しい事にその具体的な様子が全く書かれていません。ただ、「一部の婦人は何としてでもこの株を買おうと決意し、株を買う権利の対価として自らを提供したほどであった」という例が書かれているのみですが、しかしこれだけでもそのすさまじさを想像する事は出来るというものです。 ところが、この株式の売上金は、これから発見されるであろう金鉱の探査にあてられたのではなく、政府の負債の返済にあてられていました。ミシシッピ川の河口には、摂政オルレアン公の名前にちなんでラ・ヌーヴェル・オルレアン(ニューオーリンズ)という町が1718年に建設されましたが、金鉱を苦労して探すつもりはなかった様です。政府の負債の返済に使われていたロワイヤル銀行券は、一般投資家によっていっそう多くのミシシッピ会社株の購入の為に使われていました。つまり、ロワイヤル銀行券とミシシッピ会社株は循環して、いっそうの株の高値と銀行券の発券に役だっていたのです。実際のところ、ジョン・ローのやっていた事はフランス政府の負債を返す、という事に集中して行われていた様に映りますが、その内実は詐欺行為の様なものでした。ロワイヤル銀行券が兌換性を維持する為の金貨の量は、圧倒的に少ないものになっていました。 1720年には破局が来ました。破局のきっかけとなったのは、コンティ公が株を買う事が出来ない事に苛立って、自分が持っている銀行券を金と交換しようと決意した事だった、といいます。一旦は三台の馬車に金が積まれてコンティ公の屋敷へ戻ったのですが、ローの要請によって摂政が介入し、コンティ公に対してすべての金を返却する様に命令しました。 この事を聞いて、人々は銀行券より金の方が良いのではないか、という考えに取り付かれた様です。しかし、銀行にはそれら銀行券を金に替えるだけの現物の金はほとんどこれっぽっちもありませんでした。ジョン・ローは信頼回復の為に、金の供給が充分にされている事を示す必要に迫られました。 何百人ものパリの乞食が動員され、金鉱掘りの格好をさせられました。さもルイジアナには金鉱が確実にあって、そこに彼らが向かっているかの様に、彼らはパリの街々を練り歩きました。何週か後になって彼らの多くが昔の場所で物乞いしているのが見かけられたのは、人々には遺憾な事であると思われた事でしょう(笑)。事実がどうであったにせよ、銀行には人々が殺到し、ロワイヤル銀行券をミシシッピ会社の株ではなく、金と交換する様に求めました。 1720年7月のある日、ロワイヤル銀行の前で衝突が起こり、15人の死者が出ました。銀行券は交換性を失ったとの宣言が出されました。ミシシッピ会社の株だけでなく、多くの物の価値が崩壊しました。 ジョン・ローは摂政の保護によってフランス国外へ脱出し、最後はヴェネツィアで「清貧、平穏、有徳な余生を送り、教会の秘跡を敬虔に受け、カトリックの信仰を持って死んだ」。 その後100年の間フランスでは銀行に対する不信の念が続き、経済は停滞し、混乱が続きます。 同じ1720年の秋にはイギリスで南海泡沫事件が起きるのですが、しかし、この後のイギリスとフランスの100年を考えてみると、勿論多くの困難を経験したとはいえ、けして両国を、バブルが崩壊させたわけではない……という事には、充分思い至るでしょう。 次回は、南海泡沫事件を扱います。 参考文献: 『バブルの物語』ガルブレイス ダイヤモンド社 『クロニック世界全史』講談社 ◆南海泡沫事件(1720年 イギリス) さて、世に「バブル」の名を残す事になった、南海泡沫(サウス・シー・バブル)事件です。 サウス・シー株式会社は1711年にオックスフォード伯爵ロバート・ハーリーの示唆──というより霊感(とガルブレイスは書いている)──によって誕生しました。 この時期、イギリスでは、スペイン継承戦争の時期に生じた政府債務が問題になっていたのですが、それがサウス・シー株式会社の設立によって上手く解決出来ると思われたのです。 サウス・シー株式会社は政府から設立免許、株式発行権、年6%の利子支払いを受ける権利と、「南アメリカ大陸の東岸との間の貿易の独占」権を与えられました。後に南アメリカ大陸の西岸との貿易権が追加され、南アメリカ大陸全土との貿易を一手に握る会社として異常な人気を得る事になります(サウスシー「南海」とは、南アメリカ大陸の東西海岸の事を指している)。そしてそれと引き替えに、サウス・シー株式会社はイギリス政府の負債を引き受けたわけです。 ところが、ところがところがところが。全くどうしようもない事に、実はこの「南アメリカ大陸全土との貿易」は、当時スペインが完全に掌握しており、この会社のそもそもの事業目的は、はなから想像上の産物でしかありませんでした。尤も、スペインとの協定交渉は行われていて、その成り行き次第ではイギリスがそれに参入する希望がないわけではなく、現に1年に1度だけサウス・シー株式会社による貿易活動が、利潤の一部をスペインに譲るという条件で認められました。しかしその後の交渉は不調に終わり、イギリスの参入は机上の空論として終わったのです。 「実のところ、これほど疑わしい商業的企画を想像することはできないであろう。それにもかかわらず、パリにおけると同様に、疑問をさしはさむのは無用の長物であった。」(ガルブレイス) しかし、1720年には、南海会社の株価はもの凄い勢いで上昇します。 1月 128 3月 330 5月 550 6月1日 610 6月2日 870 6月 890 6月下旬 1050 (単位:£) これによって、多くの人が突然金持ちになりました。そして、それを見た他の人々はこの流れに乗り遅れまいとこのブームに殺到し、ますます株価を押し上げたのでした。 また、このサウスシー会社の株騰貴によって、他にも多くの同じ様な模倣者が多く生み出されました。 まともな会社としては、馬に保険をつける会社、石鹸の製造技術の改善を図る会社、牧師館および教区牧師の家を修繕・改築する会社、私生児を受け入れて養育するもしくは病院を建てる会社など。毛髪の取引をする会社とか、水銀を可搬性の純金属へ変換する会社とかいうとあやしくなってきますが、永久運動を開発する会社とか、海水から金を取得する会社とか、或いは「大いに利益になる事業をするのだが、それが何であるか誰も知らない」という不滅の会社、などになってくるともはやアヤシサ大爆発のシロモノですね。 1720年7月(4月という資料もアリ)には、この便乗商法の動きにイギリス政府が待ったをかけました。泡沫会社禁止法(バブル法)なる法律が制定され、バブルの様にわらわらと増殖する、サウスシー会社以外の企画(特許状を持たない株式会社)を禁じる処置を打ち出したのです。ところがこれは、別にそういう商法自体を禁止するもの、というよりは、サウスシー会社の株価を維持するための方策でありました。 しかしその様な努力も空しく、サウスシー会社の株価は8月に頭打ちとなり、恐ろしい程の暴落が始まります。 8月初め 900以下 9月 400 9月末 175 11月 135 12月 124 (単位:£) 多くの人が破滅的な大損をしました。アイザック・ニュートンもそのうちの一人でした。彼はかつて、「私は天体の運動を測定することは出来るが、人間の心理の愚かな動きを測定することは出来ない」と延べた事があるそうですが、彼自身も自らの愚行を測定出来ず、£20000(約1億円相当!)を失いました。イギリスの経済は未曾有の大混乱に陥ります。 責任を帰すべき人物の探求が始まりました。1720年の秋には、イギリス中の主だったあらゆる町で集会が開かれ、その詐欺的なやり方によってイギリスを破滅寸前まで追いやったサウスシー会社の取締役達に対して立法府が復讐してくれる様祈る請願が採択されました。ロバート・ハーリー卿と共にサウスシー会社の重要人物であったジョン・ブラント卿はロンドンの路上で撃ち殺されそうになり、危うく死を免れました。ロバート・ハーリー卿は突然大陸に向かって逃げ出しましたが、追跡され、投獄され、犯罪人として引き渡しを求められました。彼は何とか逃亡に成功しましたが、続く21年間を亡命者として過ごさねばなりませんでした。この事件に関係した有力な古参の政治家ジェームズ・クラッグスは自殺しました。多くの人が刑務所に入れられ、または財産を没収され、身分を剥奪されました。時の大蔵大臣も、サウスシー会社に買収され、その便宜を図っていた事が明るみに出て、失脚しました。 しかし考えてみて下さい。その後イギリスはどうなったか? これが不思議な事に、「イギリスの覇権」なのですよね。大蔵大臣が失脚した後、ウォルポールが大蔵大臣になりました。彼は賄賂を多用する、非常にダーティな政治家でしたが、実務を良くこなし、21年間大蔵大臣の地位にあってその慣習によって「首相」の地位を生みだし、イギリスを覇権国家に押し上げたのでした。 参考文献: 『世界史の中から考える』高坂正堯 新潮選書 『バブルの物語』ガルブレイス ダイヤモンド社 『クロニック世界全史』講談社 |