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アリスタゴラス

(裏切り者選手権から)


 以下の記事は、歴史フォーラムで「裏切り者選手権」が行われた時に書いたものです。


 アリスタゴラス [?〜前497] の場合

 歴史の父と呼ばれるヘロドトスが、ペルシア帝国の侵攻に立ち向かうギリシア世界の物語をその著書『ヒストリアイ(歴史)』で書いたのは有名な話ですが、そのペルシア戦争のそもそものきっかけになった事件、イオニア反乱を起こしたのが、このアリスタゴラスです。

 その意味でこのアリスタゴラスは、ヘロドトスをして世界最初の歴史書を書かせたわけであり、故に全ての「歴史」に関わる人達が永遠に記憶にとどめておくべき、記念すべき裏切り者と申せましょう(ホントかよ(笑))。


 アケメネス朝ペルシアの威光が現在のトルコ辺りまで優に及び、まだペルシアがギリシアなどなんとも思ってなかった頃(B.C.500年頃)のお話です。

 ミレトス(現在のトルコの南西部)の僣主代行をペルシア帝国から任されていたアリスタゴラスは、ナスソス島の反乱で追われてきた富裕者層から兵力提供を申し込まれたのをきっかけに、自己の勢力拡大を図ろうと思い立ちます。時のペルシア王ダレイオス1世に許可を取りつけたアリスタゴラスは兵力をナクソス島に送りますが、4ヶ月の攻囲の末遠征は完全に失敗。自らの失策の為に僣主代行の地位さえ危ないと感じた彼は、このままペルシア帝国の庇護の下で自己の地位が守られぬなら、いっその事ペルシア帝国に反乱を起こしてしまおう、と考えるに至ります。

 首尾良くミレトス周辺の勢力を反ペルシアに仕立て上げた彼は、今度はギリシア世界からも強力な援軍を頼もうと、武勇をもって聞こえたスパルタとアテナイに向かいます。

 まずスパルタに到着した彼は、必死にこの遠征の有利なる事を時のスパルタ王クレオメネスに説きました。しかしその会談の3日目に、うっかり口を滑らせて「スパルタからアジアに出征するのにかかる道程は3ヶ月である」と言ってしまい、クレオメネス王はそれを聞いてこの出征に対してきっぱりと拒絶の態度をとります。アリスタゴラスはなおも説得を続けようとしたのですが、その時王の8歳になる娘ゴルゴ(のちにレオニダス王に嫁ぐ)が、「お父様、もうお席を立ちなさいませ。そうでないと、お父様はこの外国人に買収されておしまいになりますよ。」と大声で忠言した為、アリスタゴラスはあきらめざるを得ませんでした。


 次にアリスタゴラスはアテナイに向かいました。ここでもアリスタゴラスは説を尽くしてアテナイの民会でアテナイの出兵が有利でありまた当然の事である事を説きました。ここでの説得は成功し、アテナイは軍船20隻を派遣する事に決します。
 ヘロドトスの評。
「アリスタゴラスがスパルタのクレオメネスひとりをだますことができなかったのに、三万のアテナイ人を相手にしてそれに成功したことを思えば、一人を欺くよりも多数の人間をだます方が容易であると見える。」

 そしてこの事が、後のペルシア戦争に繋がるきっかけとなってゆくのです。


 最初に反乱軍は、サルディス(現在のトルコ西部内陸の都市)を焼き打ちします。この報告を聞いたペルシア王ダレイオス1世は、イオニア地方の反乱者に就いては、いずれ報いを受けるであろう事を良く承知していたので気にもとめませんでしたが、アテナイ人とは何者か、と尋ねました。その答えを聞くと、王は弓を取り寄せ、天空に矢を射ながら「神よ、アテナイ人に報復する事を、我に得させ給え」と言ったといいます。そして、召使いの一人に、食事の給仕をする度に王に向かって「王よ、アテナイ人を忘れ給うな」と三回言えと命じました。

 実はサルディス焼き打ちの後、アテナイ軍はアリスタゴラスの参加要請にも頑として応じず、軍を収めていたのですが、ダレイオス1世にとってそんな事は知った事ではありません。全く不幸な結びつきが、この時歴史を動かしたのです。しかも、当のアリスタゴラスは遠征には同行せずに自分の本拠地に居たのでした。きっとぬくぬくと反乱の計画でも練っていたのでしょう。

 しかしペルシア帝国に一地方の僣主が対抗出来るわけはありません。次々と撃ち破られていく反乱軍の様子を見て、アリスタゴラスは逃亡を画策します。彼は逃亡の途中、トラキアのある町を攻略した直後に、トラキア人に討たれて死にました。


 アリスタゴラスは、裏切り者としては非常にスケールの小さい人間でありながら、ペルシアをしてギリシアに恨みを抱かせ、ついにはペルシアのダレイオス1世、クセルクセス1世をギリシア遠征に赴かせて、ミルティアデースのマラトンの戦い、レオニダス王のテルモピュライの戦い、テミストクレスのサラミス海戦を現出させたという点で、その功績は歴史上のあらゆる人物の中でも第一級のものと言えるでしょう。え、そんな事ないって?(笑)