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アーイシャ


 我らがロリータアイドル (゚゜)☆\(--;)ばきっ、アーイシャ様は勝ち気で甘えっ子、預言者ムハンマド(マホメット)の10人を超す妻の中で最も愛された、「イスラーム信徒の母」。

 アーイシャのお父ちゃんは預言者ムハンマドととても仲が良く、親友ムハンマド(当時50歳)が最初の妻を失った後に、娘と婚約したいと言うのを聞いて、こころよくそれを承知することになりました。が、その時その娘アーイシャはわずか6歳。町中で友達と遊んでいたのを母親に呼び戻され、婚約のことを告げられて、相手が誰かともたずねずに、ただうなずいていたとか。実際の結婚は9歳の時に行われました。

 ここで、「預言者ムハンマドはロリコンではないのか?」という疑問が誰しも思い浮かぶことと思いますが、この婚約と同時にムハンマドは未亡人でかなり年をとっていたサウダという女性とも婚約しているので、そうでもないのかもしれません。もっとも、ロリータも未亡人もどっちも好きだったという事もあり得ます (‥ )\(--#)ぺしっ

 まあ、ムハンマドという人は非常に純粋で誠実な人であったらしい(それでこそ、あれだけの信徒を獲得した)し、アラブでは妻を何人も持つのは当たり前で、10歳くらいの花嫁というのも普通だったという事なので、そういうのはまあ下世話な話だと申せましょう。

 それはともかく、9歳の時(623年?)にアーイシャは初老のムハンマドと結婚しましたが、挙式の当日もアーイシャはぶらんこに乗って遊んでいて、母親が連れ戻して顔を洗わせたが、まだ息づかいが荒かったのでしばらく休ませた後で、結婚式場に連れていったといいます。アーイシャは、ものすごく年上ではあるけども、純粋で誠実なムハンマドをとても好きになった様で、非常によく甘え、ムハンマドもまたアーイシャを非常に愛しました。ムハンマドの妻としては他にサウダもいたけども、サウダとはかなり年が離れていたので、勝ち気なアーイシャも嫉妬心が起こらなかったとか。

 イスラーム暦の元年になっているヒジュラ(ムハンマドのメッカからメディナへの移住)が622年で、翌年アーイシャと結婚、その9年後にムハンマドは亡くなりますが、その10年間の間にイスラームの教えは確立し、ムハンマドは多くの戦いを交え、また多くの妻をめとる事になります。

 625年に、ムハンマドは20歳くらいのうら若きハフサと結婚。はじめてのアーイシャのライバルです。626年には心の優しいザイナブと、美しくて気位の高いヒンドという女性(両者とも未亡人)と結婚しましたが、当時12歳のアーイシャは新婦ヒンドの美しさを聞くにつけ、「ひどく悲しかった。ねたましかった。」と、後に述懐していたとか。

 627年には、これまた美人のザイナブという女性(年は30過ぎかと思われる)とムハンマドは結婚していますが、このザイナブという女性はそもそもムハンマドの養子の妻となっていたのを、ある時ザイナブのしどけない姿を見たムハンマドが心を動かされて、それで養子の方はザイナブを離縁する事にしてその後ムハンマドが妻に迎えたのだとか。これは信者の間からは非難の声があがった様ですが、アーイシャがどう思ったのかまでは、ちょっと分かりません(手に入る資料からは)。しかし、ザイナブがアーイシャのライバルであるのはもちろんでした。

 さて、このザイナブとの結婚ののち、ムハンマドはある遠征に13歳の愛妻アーイシャらを伴って赴き、勝利しましたが、その帰路に重大な事件が発生しました。

 あと一日で本拠メディナに帰り着くという日の朝、アーイシャは出発の直前に、少し露営地を離れたところに行って用を足しました。そして戻ってきた時に、めのうの首飾りを落としてきた事に気付いて、もとの場所にとってかえし、うまく探しあてました。ところが、さて露営地に戻ってみると、その間に一行は出発してしまって誰もいなかったのです!

 アーイシャ、ぴーんち! ですが、下手に動いたら、もっとひどい事態におちいってしまう事は明白です。アーイシャとしては、その場に座り込んで、彼女がいなくなった事に気付いた人たちが迎えに戻ってきてくれるのを待つしかありませんでした。待つ間にいつしか眠ってしまったアーイシャでしたが、ふと目覚めると、そばに一人の美しい青年と一頭のらくだがいて、この青年がアーイシャをらくだに乗っけて、メディナに連れていってくれたのです。

 ムハンマド一行の方はうかつな事に、夕方メディナに着くまでアーイシャが乗っていない事に気付かず、気付いて大騒ぎしているところに、青年と共にアーイシャが帰ってきたのでした。

 さて、これだけならめでたしめでたし、なのですが、日ごろムハンマドらイスラーム信徒たちの事を良く思っていなかった人たちは、これ幸いと「これは不品行なことで、スキャンダルだ!」とわめきはじめました。「若く美しい男女が、たった二人で一日中、人目のない荒野を旅してきたのだから、二人の間になにもなかったわけがない」と言うのです。どっちかというと、そういう事を言いだす方が不品行な様に私には思えますが、まあ、そういう風に言われだしたのだからしょうがない。ウソでも100回言ったらホントになる、という言葉もあります。

 それでまた、ムハンマドの妻たちの間でも、アーイシャが一番ムハンマドに甘え、愛されていたので、それをねたんでこの事件をむしろ喜んでいた者が、いないでもなかったのです。アーイシャはこの様なスキャンダルの噂を、一ヶ月ほどしてある人から聞かされ、ひどく泣き悲しみました。

 ムハンマドは、最初このスキャンダルを信じていなかったのですが、困った事にこの時、天の啓示に伺いをたてようにも、啓示が止まってしまい、悩む事になりました。そこで、人々に意見を聞いたところ……

 アーイシャにとって最も冷酷な意見を述べたのは、アリーという人物でした。このアリーという人物は、ムハンマドの従兄弟で娘婿、聡明で博識で弁舌さわやか、戦場では抜群の勇者であり、性格は誠実で廉潔、情に篤く、謙虚で公平無私、日常生活は素朴で禁欲的という、まさに「カ・ン・ペ・キ」な人物。当然、イスラーム信徒の中でも人気は高く、「アリーとその子孫だけがイスラームの正統な後継者だ〜!!」と叫ぶ人たち(シーア派)と、そうではないと見なす人たち(スンナ派)とが、イスラームの二大流派です(もっとも、シーア派は数が少ないですが。今のほぼイラン領内限定)。

 アリーは、こう言ったのです。「アッラーの使徒(ムハンマドのこと)よ、アッラーはあなたにけっして狭い制限をおかけになってはおられませぬ。あれくらいの女は数多くおります。あの女の侍女について真相を糾明なされませ。」

 それに対して、アーイシャにとって最も思いやりのある意見を述べたのは、意外にもアーイシャのライバルと思われていたザイナブでした。彼女はこう言ったのです。「アッラーにかけて申し上げますが、わたくしの見たり、聞いたりしたかぎりアーイシャさまには一点の非もございませぬ。」

 アーイシャは、二人の言葉を終生忘れませんでした。アリーに対しては強烈な憎悪を抱き、ザイナブには深い恩義を感じました。アリーには、“あれくらいの女”呼ばわりされたのですから、当然でしょうヽ(´・`)ノ  それゆえ、アーイシャさまを崇める人たちにとっては、シーア派は敵です。シーア派を撃滅せねばなりません (゚゜)☆\(--;)ばきっ

 やがて、ムハンマドにも、アーイシャが潔白であるという事について、確信が持てる様になりました。他ならぬ、「アーイシャは無実である」という天啓が得られたからです。なんかうさんくさいですが、信じなければなりません。(--)(__)(--)(__)(おい)

 さてさて、その後もムハンマドは5人の妻を迎えます。最後の結婚相手は629年、26歳の美女マイムーナで、この女性は「世界史トランプ」のクラブの7、勇将ハーリド・ブン・アルワリードの叔母でもあります。既述の妻たちのうち、ザイナブは亡くなっていたので、都合10人の妻たちが、最晩年のムハンマドのまわりにはいたのでした。もちろん、そのうちで最も愛され、重んじられていたのは、妻たちの中でも最も幼かったアーイシャでした。

 630年にはムハンマドはメッカを征服。その2年後、62歳のムハンマドは病を得て、19歳のアーイシャの膝の上で息を引き取ります。二人の間に子どもはありませんでした。

 ムハンマドの死後、アーイシャは再婚する事なく、年金を得て暮らしていました(この年金は、ムハンマドたちの妻の間で差なく、という事でしたが、しかしアーイシャだけはやはり特例として最も高額になっていました)が、第4代正統カリフのアリーと対立。656年、45歳の時、反アリー連合軍を励ますためにらくだに乗って陣頭にあらわれ、白兵戦のまっただ中に突入し、味方を鼓舞するために詩を吟じ、敵を罵ったといいます(お下品(^^;)。アーイシャとそのらくだをめぐって凄惨な戦いが続けられ、アリーの軍兵の矢からアーイシャを守るために討ち死にを遂げた勇者が70人を数えたとか。

 この様子を見てアリーはらくだの脚を狙えと命じ、脚を斬られてバランスを崩したらくだからアーイシャも転倒、捕らえられます。

 しかしアリーは義理の母にあたるアーイシャを丁重に待遇し、アラビアに送り返しました。その後、アーイシャはメディナで平穏な余生を送り、数多くの預言者ムハンマドの言行(スンナ)を語り伝えて、66歳で世を去りました。

参考文献:『イスラム世界』河出書房新社 世界の歴史8