多様性の芽をつみ取るのが教師の仕事?



 教育現場で「力を持っている」とされる教師や、あるいは教育委員会が求める教師像というのは、「子どもたちに、大人が望ましいとする価値観を、うまく持たせることができる」人物であるようだ……というのが、私の印象です*1


 私が現場で感じたのは、教師はとにかく、「子ども達を自分達が望ましいと思う“枠”にはめ込む事に一生懸命努力している」という事でした*2

 私はある学校にいた時、生徒たちに「松浦先生は変な先生だなぁ」と言われ続けました。
 私が生徒達に「変だ」と言われる要素の一つとして、ある時ある生徒が「松浦先生はオレ達に“こうしろ!”とか“そういう考え方をするな!”って言わないから変だよね」という様な事を言っていて、つまり生徒達に“こうしろ!(こうするな!)”と言う先生こそが普通なんだ、と生徒は理解しているようなのです。


 すなわち……今(まで)の教育現場のやり方というのは、大人たちが望ましいと見なしている「ある一種の価値観*3」の枠内に子どもを入れようとする行為だ、という考え方が可能だと、私は思うんですよ。
 実際にその「ある一種の価値観」という枠がうまくいっていた時代がずっと続いてきたわけで、その間はその教育方針はそれで良かっただろうし、大人もずっとそれで良いのだと思っていたのだ、と。実際これまで、その日本的な「ある一種の価値観」に入ることができなかった人たちは、今までの日本では挫折と苦境を、ほぼ間違いなく味わってきたわけですしね(同質性の高い人たちを囲い込んでその中で利益を配分し、異質性の高い人は閉め出すというのが、日本社会の基本的なやり方である)。

 で、「今までの日本社会でうまくやってきた人たち」というのは、自分たちのやり方が経験的にうまくいってきたわけだから、「同質性こそが良い事で、異質性は排除しなければならないし、ある子どもが異質性を持つことはその子のためによくないことで、その子のためにも矯正してやらなければならない」と思っていると思うんです。それは、ホントに心からの親切心でもって。

 つまり日本の教育はずっと、「同質性を高め、異質な個性を矯正する」という事で行われてきたと考えられますし、またそれを行う教師連中は当然ながら同質性が非常に高いわけで、それから外れる様な教師も非常に少ない。

 換言すれば、「多様性を認めないことが教師の要件」だとも言える状況に長らくあったので、「変な」教師でなければ個性を伸張させることなど出来はしない、と言えるのではないか……というのが私の仮説です。



 
*1……「大人が望ましいとする価値観を、うまく持たせることができる」
 『うまく』の内容ですが、教育委員会は、「子どもに……のすばらしさを体感させることができる」とか、「子ども達を引っ張っていくことができる」とか、そういう穏健かつ前向きな方向性を望んでいますが、実際の教育現場では、特に40代以上の教師は、強圧的で有無を言わさぬ態度によってそれを成し遂げているというのが実態でした(ただし、生徒の反感も、もの凄いものがあります。)。
 若い人の中には、教育委員会的な方法で一生懸命子どもに「望ましい価値観」を植え付けようとする人もいて、うまくいく例もあるのかもしれませんが私が見聞きした範囲では存在せず、「やはりどうしても教育というのは強圧的な態度が不可欠である」という意見になったり、あるいは「なぜ自分のやり方はうまくいかないのだろう?」と悩んだりする様子を見たりしました(この例においても、教師はものすごく嫌われていました。)。
 私に言わせれば、「自分らと同じ価値観をただひたすら持たせようとする方法そのものが限界に達している」(子どもと同等の立場になって、新しくお互いにうまくいかせることの出来る価値観を作り出していこう、というのならともかく)、という事なのですが。
 
*2……「子ども達を自分達が望ましいと思う“枠”にはめ込む事に一生懸命努力している」
 ただし口では、個性の伸張の必要性や、教師の旧態依然とした思考法の改革の必要性を訴えたりはします。ですから、こういう事になります。
 「個性を尊重し……」とか言いつつ、きつい縛りで有無を言わさず自分らの望むことだけをやらせ、それ以外は全然認めない。
 「生徒に任せる」とか言いつつ、実際には全部自分らで決めてしまって、反対意見を全く受け付けない。
 ただ……こういうのは、昔から日本では行われてきた「ホンネとタテマエ」のやり方なのかもしれない、とも思います。この「ホンネとタテマエ」をうまく使うことができる人が出世するのが、日本の社会なのだと。だとしたら、生徒達が若い間は「ホンネとタテマエ」の乖離(かいり)についていけなくて憤慨するけど、そのうち「そうか、これはホンネとタテマエなんだ」と分かってきて、それにうまく適応できるようになってきて、めでたく日本社会の仲間入りが出来る……とか?
 そんなんヤですけどね。そういう、「ホンネとタテマエ」っていう前近代的なあり方を変えなきゃ、日本はどうしようもないと思います。
 
*3……「ある一種の価値観」
 基本的には、まわりと仲良くすることがまず大事で、自分の意見を前面に出してはいけない。また勉強がよくできて勤勉で、黙々と言われたことをこなすことができる、という様な人物像をよしとする。
 ただし、この様な人物像は、「進んだ外国の技術を取り入れてきて、それに追いつこうとし、また単純作業による大量生産労働に耐える」ことを日本がやってきた時代(戦後長らく)は、非常に時代にマッチしていたが、日本の技術が世界の最高水準に至り、なおかつ東南アジア、東アジアで恐ろしく安い労働力で単純作業による大量生産がなされる様になってくると、まったく時代に合わなくなってきてしまった。
 今求められる価値観は、「まず自分の得意な事があり、自分の意見を言い、それを調整することができる。全ての分野に通暁している必要はないから、何かこれだけは誰にも負けないというものがあり、それでもって自分の運命を切り開いていける」という人物像であろう、という事になります。
 この仮説の代表的な論者としては、堺屋太一氏が挙げられるでしょう。