#5 マーンリウス氏族


家系について:

 「大氏族」かどうかはっきりしないが、少なくとも旧貴族中の「小氏族」ではあったようで、有名人をいくらか輩出している。なお、この氏族はマールクス・マーンリウス・カピトーリーヌスが刑死した後、元老院によって、以後マールクスの名を付けてはならないとされた。



マールクス・マーンリウス・カピトーリーヌス
 (392執政官)?〜384
 ガリア人のローマ占領に際し、カピトリウムの丘を最後まで守るのに最も功のあった人。そのことからカピトーリーヌスの称号を得た。カミルスをしのいで第一人者になろうとして民衆を扇動し、裁判にかけられた。最初カピトリウムの丘の見える場所で裁判が行われたため無罪となりかけたが、場所を移して裁判が行われた結果有罪となり、カピトリウムの丘から突き落とされて刑死した。

ティトゥス・マーンリウス・トルクアートゥス
 (340執政官)
 カプア叛乱の際、ウェスーウィウス山麓の戦争で息子のティトゥス・マーンリウスが抜け駆けによって功名を立て、その武勲によって冠を授けられたが、軍令に背いたとして息子を死刑に処し、軍律を守った。

 
 ルーキウス・マーンリウス・ウルソー
 (189執政官)
 アンティオコス大王が降伏したあと、小アジアに着任し、大王の同盟者であったガラテヤ人(小アジア中部のケルト人)を攻め、ローマとして軍を初めて小アジア奥地(現在のアンカラ方面)まで進めた。

 マーニウス・マーンリウス
 (149執政官)
 第三次ポエニ戦争でカルタゴの包囲を始めた人。雄弁家及び法学者として名があった。ティベリウス・グラックスの改革に際して、ティベリウスの身に危険が迫りそうになると、彼に説いて危険を冒すのを思いとどまるよう頼んだという。


 マンリウス氏族の執政官職歴表。


480 グナエウス・マンリウス・キンキナトゥス
474 アウルス・マンリウス・ウルソ

434 マルクス・マンリウス・カピトリーヌス(?)

392 マルクス・マンリウス・カピトリーヌス

359 グナエウス・マンリウス・カピトリーヌス・インペリオスス
357 グナエウス・マンリウス・カピトリーヌス・インペリオスス(2回目)

347 ティトゥス・マンリウス・インペリオスス・トルクアトゥス
344 ティトゥス・マンリウス・インペリオスス・トルクアトゥス(2回目)
340 ティトゥス・マンリウス・インペリオスス・トルクアトゥス(3回目)

299 ティトゥス・マンリウス・トルクアトゥス

256 ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングス
250 ルキウス・マンリウス・ウルソ(2回目)

244 アウルス・マンリウス・トルクアトゥス・アッティクス
241 アウルス・マンリウス・トルクアトゥス・アッティクス(2回目)

235 ティトゥス・マンリウス・トルクアトゥス
224 ティトゥス・マンリウス・トルクアトゥス(2回目)

189 グナエウス・マンリウス・ウルソ

179 ルキウス・マンリウス・アキディヌス・フルウィアヌス
178 アウルス・マンリウス・ウルソ

165 ティトゥス・マンリウス・トルクアトゥス
164 アウルス・マンリウス・トルクアトゥス

149 マーニウス・マンリウス

120 プブリウス・マンリウス

65 ルキウス・マンリウス・トルクアトゥス


 確かに392年以降、マルクスという名の者はいないのですが、しかしカピトリーヌスという名前は彼が最初というわけでもないんですね。頭痛い。見てると、キンキナトゥス(これはホントは「キンキンナトゥス」らしい)という副名は、私はクィンクティウス氏族のものだと思っていたのですが、マンリウス氏族にもあるし、また、トルクアトゥスというマンリウス氏族に多い副名もクィンクティウス氏族に幾らかある様です。何らかの結びつきがあったのか、単なる偶然か・・・。



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