#8 フーリウス氏族


家系について:

 フーリウス氏族については何一つ明らかではない。ただ、プルータルコスがカミルス伝において、「その頃フーリウス家にはまだ大した声望はなかったのに、カミルスが……」と書いているので、カミルスが出るまでは無名だったのであろう。カミルスの後も重要な人物は輩出していないが、数人が、官職に就任したことが(乏しい資料からでも)確認できる。


マールクス・フーリウス・カミルス
 (403監察官(他1回)、396,390,389,368,367独裁官、
 401,398,394,386,384,381軍事護民官)?〜365
 前396年、独裁官としてエトルリア最大の町ウェーイイーを攻めて陥落させるなど、大きな軍事的成功を収めたが、ローマ市民の嫉妬を買い追放される。しかしガリア人のローマ占領に際して独裁官に任命されて祖国を救い、ロームルスに次ぐローマ第二の創建者と言われ、その後も30年の長きにわたってローマ随一の将軍として活躍した半伝説的英雄。

 ルーキウス・フーリウス・メドゥリーヌス
 (382軍事護民官?)
 軍事護民官就任の年ははっきりしない。カミルスを同僚としてウォルスキーを攻めたが、血気にはやり、カミルスの意見を無視して出撃、大敗した。カミルスに次のトゥスクルム攻撃において同僚を選ぶ権限が与えられた時、カミルスの、恥辱をそそがせようという思いから、再度同僚に選ばれた。

 フーリウス
 (233執政官)
 名前や家名は分からない。有名なガーイウス・フラーミニウスと共に233年の執政官に選ばれたが、彼等が大軍を率いて進発した際、川が血の流れになっていたり、月が3つ現れたりしたという。祭司達もこの執政官任命は不吉だと明言し、彼等は強制的に執政官職を辞任させられた。

ルーキウス・フーリウス・フィルス
 (136執政官)
 スキーピオー・アエミリアーヌス(小スキピオ)の親友で、スキピオサークルの一員。有能な演説家で、またローマ古来の宗教儀式に関心を持っていた。執政官の時ヌマンティア戦争で敗北したマンキーヌスの事件を調査し、外交担当神官団の古風な手続きに従って被告マンキーヌスのヌマンティアへの引き渡しを指図した。



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