#7 フルウィウス氏族


家系について:

 この氏族はもともとからローマの貴族であったのではなく、トゥスクルムという町の最高の貴族の家柄である。ファビウス・ルリアーヌスの知遇を得てローマに移り、322年には執政官を輩出した。
 179年頃には、この氏族は勢力の絶頂期にあり、ローマ政界をフルウィウス氏族で牛耳っていた。すなわち、主なものだけを挙げても、182年からフルウィウス氏族の一員がヒスパニアのローマ軍の総司令官になって、180年にローマで凱旋式を祝い、同年にはその従兄弟が執政官になり、翌179年には先にヒスパニアから凱旋したフルウィウスとその弟がそろって執政官にあり、前者はさらに神祇官になったばかりでなく、北イタリアで戦功をたてて再び凱旋式を祝った。また同じ年にフルウィウス・ノビリオル(アイトリア同盟を破った将軍)が監察官になり、その異父弟が法務官になった。長年スキーピオー派とは政敵であったのだが、そのうちの一人アエミリウス・レピドゥス(この人物はこの年以降27年間にわたって元老院首席と大神祇官を務めた。彼以上の長さ、元老院首席であった人物は知られていない)と、この年に劇的な仲直り(というか政治的取引)を演じ、キケローの時代まで語り継がれる美談となった。しかし174年、フルウィウス・ノビリオルが死んでから勢力がふるわなくなった。



 クィーントゥス・フルウィウス・フラックス
 (237,222,212,209執政官)
 第二次ポエニ戦争の際、ハンニバルに奪われたカプアの町をアッピウス・クラウディウス・プルケルと共に、211年奪回した。

マールクス・フルウィウス・フラックス
 (125執政官、122護民官)
 グラックス兄弟の最大の協力者。ティベリウス・グラックスに危険を冒すのを思いとどまるよう泣いて頼んだが、ティベリウスが殺害されるのを防ぐ事が出来なかった。そのためか、ティベリウスを殺したといわれるスキーピオー・ナーシーカおよび小スキーピオーと敵対し、ローマ同盟市にローマ市民権を与えようとしたために元老院議員達から激しく憎まれ、それがガーイウス・グラックスを破滅させる原因となる。改革反対派が多くの法律を廃棄したのに対し、ガーイウスを激励して対抗しようとしたが、アウェンティーヌムの丘で執政官オピーミウスの軍勢に攻められ、上の息子と共に死亡、ガーイウスも死亡した。

 クィーントゥス・フルウィウス・フラックス
 上記の下の息子。姿の非常に美しい青年で、父やガーイウスがアウェンティーヌムの丘に集まった時に伝令使としてフォールムに赴き、威儀を正して恭しく立ち、涙を流して執政官および元老院に対して和解の言葉を述べた。そこで列席している人々の多くは和解してもいいという気になったが、執政官オピーミウスは戦闘開始を急ぎ、すぐさまこの青年を逮捕したという。




 フルウィウス氏族の執政官職歴表。


322 ルキウス・フルウィウス・クルヴス

299 マルクス・フルウィウス・パエティヌス
298 グナエウス・フルウィウス・マクシムス・ケントゥマルス

264 マルクス・フルウィウス・フラックス

255 セルウィウス・フルウィウス・パエティヌス・ノビリオル

237 クィントゥス・フルウィウス・フラックス

229 グナエウス・フルウィウス・ケントゥマルス

224 クィントゥス・フルウィウス・フラックス(2回目)
212 クィントゥス・フルウィウス・フラックス(3回目)
211 グナエウス・フルウィウス・ケントゥマルス・マクシムス
209 クィントゥス・フルウィウス・フラックス(4回目)

189 マルクス・フルウィウス・ノビリオル

180補欠執政官 クィントゥス・フルウィウス・フラックス
179 クィントゥス・フルウィウス・フラックス
  (ルキウス・マンリウス・アキディヌス・フルウィアヌス)

159 マルクス・フルウィウス・ノビリオル

153 クィントゥス・フルウィウス・ノビリオル

135 セルウィリウス・フルウィウス・フラックス

125 マルクス・フルウィウス・フラックス


 179年の執政官ルキウス・マンリウス・アキディヌス・フルウィアヌスは、同年の執政官クィントゥス・フルウィウス・フラックスの弟の筈です。マンリウス家に養子にいったものでしょう。



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