#1 コルネーリウス氏族


家系について:

 コルネーリウス氏族については、資料が不足しているため確かなことは言えませんが、通史的な共和政ローマ史上では、第二次ポエニ戦争までは有名な人物をほとんど出していない様に思われます。
 多少なりとも有名人を出し始めるのは大スキピオのおとっつぁんの頃からなのですが、それからは恐ろしいほどの権勢を誇ります。大スキピオ、小スキピオ、グラックス兄弟の母コルネリア、元老院首席となったスキピオ・ナシカなど……。しかしそれぞれ国外退去、朝見たら死んでた(暗殺されたと言われる)、息子達は殺された、息子がローマを逃げ出して死んだ、など、結局は人生をまっとうしないものが多く、最終的には落ちぶれた、ような気がします(そうでもないのかもしれませんが、私は実はコルネーリウス氏族があまり好きではないので、ちょっと偏見が入ってマス(^_^;)。
 しかし少なくとも第二次ポエニ戦争からグラックス兄弟の頃までは、絶大な勢力を持っており、おしもおされぬ旧貴族(パトリキ)中の「大氏族」でした。



 アウルス・コルネーリウス・コッスス
 前5世紀、ローマのすぐ北の町フィディーナとの戦いに名を挙げた人で、エトルリアのウェーイイー(ローマの北西15km)の王トルムニウスを破り、その武具をユッピテルの神殿に献じたとして有名(他に同様のことを行ったのは、ロームルスとマルケルスのみである)。

 プーブリウス・コルネーリウス・スキーピオー
 (396騎兵隊長)
 ウェーイイーの包囲の10年目に独裁官となったカミルスによって騎兵隊長に選ばれた。彼自身の戦果は定かでないが、ウェーイイーは陥落している。

 ルーキウス・コルネーリウス・レントゥルス
 (275執政官)
 エペイロス王ピュロスと戦った人物。自身はルカーニアに居て、ピュロスの全軍のうちの半分と戦ったに過ぎないが、もう一人の執政官、マーニウス・クリウス・デンタートゥスは残りの半分を打ち破り、ピュロスをイタリアとシチリアから撤退させた。

プーブリウス・コルネーリウス・スキーピオー
 (218執政官)
 大スキピオの父。218年、ハンニバルのイタリア進撃の時執政官の地位にあり、その機動によってハンニバルに犠牲多いアルプス越えを強いたが、騎兵2000のみで北イタリアでハンニバルと戦うことになり、ティキヌス河の戦いで敗戦、傷を負い、息子に助けられている。その後兄と共にヒスパニアを転戦。勝利を重ねたが、211年、マゴとハスドルバルとのマシニッサの戦いで敗れ、死亡した。

グナエウス・コルネーリウス・スキーピオー・カルウス
 (222執政官)
 上記の兄、大スキピオの伯父。ガーイウス・グラックスを殺したスキーピオー・ナーシーカ・セラーピオーの曾祖父。弟と共にハンニバルを迎撃し、弟が北イタリアへ転進する際には部隊の大部分を率いてヒスパニアへと侵入。弟と共にヒスパニアで勝利を重ねたが、211年、ハスドルバル=バルカ、マゴ、ハスドルバルに撃破され、死亡した。

プーブリウス・コルネーリウス・スキーピオー・アーフリカーヌス
 (205,194執政官、元老院首席)236〜184
 通称大スキピオ。カンナエの敗戦後、ヒスパニアに派遣され、カルタゴ・ノヴァを陥れ、208年ヒスパニアを攻略。後にアフリカ遠征を発議し、35000の兵でアフリカに上陸、イタリアから呼び戻されたハンニバルとザマで戦い、新戦法とヌミディア騎兵をローマへ寝返らせることによって202年大勝。カルタゴを屈服させ、アーフリカーヌスの称号を得た。絶大な影響力を持ったが、大カトーとの政争で勢力を失い、国外退去してカンパニアで没した。

 ルーキウス・コルネーリウス・スキーピオー・アシアーティクス
 (190執政官)
 大スキピオの弟。190年兄の後援によってアンティオコス征討軍の総司令官となり、マグネシアの戦いでアンティオコス大王を破る(ただし、実質上の功労者はアヘーノバルブスという将軍である)が、大スキピオを追い落とそうとする大カトーによって凱旋式の馬を取り上げられる。187年には(事実上大スキピオに向けられた)収賄のかどで、184年には公金着服の疑いで査問され、ほとんど逮捕されんばかりになった。これらのことから大スキピオは政界を退いたと言われる。小アジアを征服したことから、アシアーティクスの称号を得た。

 プーブリウス・コルネーリウス・スキーピオー・ナーシーカ・コルクルム
 (162,155執政官、元老院首席)
 ナーシーカ・セラーピオーの父で、大スキピオの従兄弟の子、娘婿。第三次マケドニア戦争に参加し、ピュドナ戦勝のきっかけを作った。また、大カトーに対抗して、演説した後に必ず「私はカルタゴ存すべしと思う」と言明した。152年から141年まで、元老院首席と大神祇官を兼ね、ローマの第一人者(プリンケプス)であった。

プーブリウス・コルネーリウス・スキーピオー・アエミリアーヌス・アーフリカーヌス・ヌマンティーヌス
 (147,134執政官、141監察官)185〜129
 通称小スキピオ。アエミリウス・パウルス・マケドニクスの次男で、大スキピオの長男の養子となる。第三次マケドニア戦争に従軍。第三次ポエニ戦争に執政官としてローマ軍を指揮、カルタゴを占領し、完全に破壊。降伏した全住民を奴隷に売る。また、133年ヒスパニアのヌマンティアの土着種族の頑強な抵抗を鎮圧し、ヌマンティーヌスの称号を得る。ギリシア文学を愛好し、そのサークルには文人が出入りし、ローマのヘレニズム化に寄与した。最期はグラックス兄弟(義理の兄弟でもある)の改革に反対したため暗殺されたと見られる。

コルネーリア
 大スキピオの次女、アエミリウス・パウルス・マケドニクスの姪。ティベリウス・センプローニウス・グラックスに嫁ぎ、有名なグラックス兄弟の母となった。その血筋、美貌、才知、徳性とも最高の女性で、夫が早く亡くなったためグラックス兄弟を一人でローマの第一人者に育て上げた。「小スキピオの義理の母(娘センプローニアが小スキピオの妻となっていた)」と呼ばれるが、「グラックス兄弟の母」とは呼ばれないと言って、グラックス兄弟を励まし、政治に参加させた。グラックス兄弟を失った後も、高貴な気位をもってこの不幸に耐えたと言われている。死後ローマ市民によってその銅像が建てられ、「グラックス兄弟の母コルネーリア」と刻まれた。

プーブリウス・コルネーリウス・スキーピオー・ナーシーカ・セラーピオー
 (138執政官)
 ナーシーカ・コルクルムと大スキピオの長女コルネーリアとの子で、大スキピオの孫にあたる。従兄弟にあたるティベリウス・グラックスの改革に際し、所有していた非常に広大な公有地からの退去を強制されたため、これに強く敵対し、ティベリウスの殺害を扇動した。しかしそのために民衆に激しく憎まれ、神官長であったにもかかわらず密かにイタリアを抜け出したが、国外でも非難されてさまよい歩き、まもなくペルガモンで没した。


 執政官表による、コルネリウス氏族の執政官職歴(前27年まで)。

前485年 セルウィウス・コルネリウス・マルギネンシス
前459年 ルキウス・コルネリウス・マルギネンシス・ウリトゥス
前436年 マルクス・コルネリウス・マルギネンシス
前428年 アウルス・コルネリウス・コッスス
前413年 アウルス(若しくはマルクス)・コルネリウス・コッスス
前409年 グナエウス・コルネリウス・コッスス
前393年 プブリウス?(若しくはセルウィウス)・コルネリウス・マルギネンシス
前350年 ルキウス・コルネリウス・スキピオ
前343年 アウルス・コルネリウス・コッスス・アルウィナ
前332年 アウルス・コルネリウス・コッスス・アルウィナ(2回目)
前328年 プブリウス・コルネリウス・スカプラ若しくはプブリウス・コルネリウス・
     スキピオ・バルバトゥス
前327年 ルキウス・コルネリウス・レントゥルス
前306年 プブリウス・コルネリウス・アルウィナ
前303年 セルウィウス・コルネリウス・レントゥルス
前298年 ルキウス・コルネリウス・スキピオ・バルバトゥス
前290年 プブリウス・コルネリウス・ルフィヌス
前288年 プブリウス・コルネリウス・アルウィナ(2回目)
前283年 プブリウス・コルネリウス・ドラベラ
前277年 プブリウス・コルネリウス・ルフィヌス(2回目)
前275年 ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌス
前274年 セルウィウス・コルネリウス・メレンダ
前270年 グナエウス・コルネリウス・ブラシオ
前260年 グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナ
前259年 ルキウス・コルネリウス・スキピオ
前257年 グナエウス・コルネリウス・ブラシオ(2回目)
前254年 グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナ(2回目)
前237年 ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌス
前236年 プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌス
前222年 グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルヴス
前221年 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アシナ
前218年 プブリウス・コルネリウス・スキピオ
前205年 プブリウス・コルネリウス・スキピオ(アフリカヌス)
前204年 マルクス・コルネリウス・ケテグス
前201年 グナエウス・コルネリウス・レントゥルス
前199年 ルキウス・コルネリウス・レントゥルス
前197年 ガイウス・コルネリウス・ケテグス
前194年 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス(2回目)
前193年 ルキウス・コルネリウス・メルラ
前191年 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ
前190年 ルキウス・コルネリウス・スキピオ(アシアティクス)
前181年 プブリウス・コルネリウス・ケテグス
前176年 グナエウス・コルネリウス・ヒスパルス
前162年 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ(コルクルム)
 同年補欠執政官 プブリウス・コルネリウス・レントゥルス
前160年 マルクス・コルネリウス・ケテグス
前159年 グナエウス・コルネリウス・ドラベラ
前156年 ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・ルプス
前155年 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ(コルクルム)(2回目)
前147年 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・アエミリアヌス
前146年 グナエウス・コルネリウス・レントゥルス
前138年 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ
前134年 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・アエミリアヌス(2回目)
前130年 ルキウス・コルネリウス・レントゥルス
前127年 ルキウス・コルネリウス・キンナ
前111年 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ
前 97年 グナエウス・コルネリウス・レントゥルス
前 88年 ルキウス・コルネリウス・スラ(フェリクス)
前 87年 ルキウス・コルネリウス・キンナ
 同年補欠執政官 ルキウス・コルネリウス・メルラ
前 86年 ルキウス・コルネリウス・キンナ(2回目)
前 85年 ルキウス・コルネリウス・キンナ(3回目)
前 84年 ルキウス・コルネリウス・キンナ(4回目)
前 83年 ルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクス
前 81年 グナエウス・コルネリウス・ドラベラ
前 80年 ルキウス・コルネリウス・スラ・フェリクス(2回目)
前 72年 グナエウス・コルネリウス・レントゥルス・クロディアヌス
前 71年 プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラ
前 57年 プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテル
前 56年 グナエウス・コルネリウス・レントゥルス・マルケリヌス
前 49年 ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルス
前 44年補欠執政官 プブリウス・コルネリウス・ドラベラ
前 40年補欠執政官 ルキウス・コルネリウス・バルブス
前 38年補欠執政官 ルキウス・コルネリウス・マルキウス・フィリップス
前 35年補欠執政官 プブリウス・コルネリウス(・スキピオ)
前 32年補欠執政官 ルキウス・コルネリウス


 うーむ、こうして書き出してみると、あのスキピオ家も、コルネリウス氏族の中でそうそう名門というわけでもなさそうですね。寧ろ数だけでいくとレントゥルス家の方が多そう。前87年から4年連続で執政官になっているキンナという人物が居たんですね(笑)。この人はえーっと、カエサルと何らかの関係があったんでしたっけ。良く知らなひ。前44年以降は、補欠執政官の嵐ですね。


 で、スキピオ家とレントゥルス家のどっちが多いか比べてみると、

スキピオ家    19回(15人)+あやふや2回
レントゥルス家  17回(17人)

 ですね。人数の確実性でいくとレントゥルス家の方が上とも言えますが、スキピオ家は回数でも勝っているし、2回執政官になった人物が4人もいる事を考えると、スキピオ家の辛勝かな。どうでもいいことですが(笑)。


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