このページは、1941年のメキリ戦直後からベダ・フォムの戦いまでの動画を作るに当たり、「コンパス作戦とかはシナリオがあるから初期配置や戦闘序列が分かるけど、メキリ戦直後から始まるシナリオなんてないから、初期配置も戦闘序列もわからんやないけー!」という事で、しょうがなく諸資料から戦闘序列などを再構成し集積していき、動画を作る時の手間を省くためのものです(情報を集積しておかないと、後でなんべんも同じ資料を見直したりして結局面倒なのです……)。 っていうか、動画を見た人にとっても見なかった人にとっても、メキリ〜ベダ・フォムの戦いの様相が分かるページがあったら便利じゃん、とか、どうせ調べたことの全部を動画には盛り込めるはずもないので、調べることは膨大にやるのにそのほとんどが結局は捨てられてしまってMOTTAINAIという事もあります。 とりあえずまず、メキリ戦直後あたりのイギリス連邦軍の最前線の戦闘序列を、関係資料から再構成してみました。 なお、資料として、『OPERATION COMPASS』(OSPREY MILITARY)は入手してません。なぜかというと、『萌えよ! 戦車学校V型』で参考資料にされていたので、使うのは悔しいなぁと思って(おい)。同じく参考資料として上げられている『タンクバトルT』を見てるとほぼ話が一緒なので、このプロー少佐の話だけがこれら資料ではベダ・フォムの戦いのメインなのでしょうか? でも他の資料でプロー少佐なんて名前は全然見た事ないんですよね……。でも、「持ってるけど教えてやるぜ」という方がおられましたら大歓迎です!バキッ!!☆/(x_x) 資料@『BEDA FOMM』Kenneth Macksey(ちょー英語が難物。意味が分からない事多し) 資料A「The History of the British 7th Armoured Division」(http://www.btinternet.com/~ian.a.paterson/battles1941.htm) (英第7機甲師団のウェブサイト。ありがたやありがたや……) 資料Bコマンドマガジン日本版89号付録ゲーム『ベダ・フォム』+ヒストリカルノート 資料COSPREY MILITARY JOURNAL Vol.2「WAVELL IN NORTH AFRICA」 資料D『タンクバトルT』齋木伸生著・光人社 資料E『砂漠の戦争』アラン・ムーアヘッド著 平井イサク訳 早川書房 ユニットは『DAK2』(The Gamers)のものは、資料と部隊規模が一致しないことが多いです。ゲーム化するにあたって実質の部隊規模で書いているとかかもしれません……と書いていたのですが、『コマンドマガジン日本版61号』を買ってないながらも見せてもらえる機会があって、疑問が氷解しました。中に「英軍戦車部隊における規模の呼称」という澤田淳氏の書かれた記事があって、細かい事は置いといてざっくり言うと、「英軍戦車部隊の規模呼称は米軍を基本とするNATO式兵科マークと微妙に異なっていて、たとえば“旅団”が連隊規模で、“連隊”が大隊規模だったりするよ。だから、“王立戦車連隊”とかはそういう名前の大隊だと表したりするね」という事でした。こういう記事大変感謝です。 また、『DAK2』の戦闘序列はミスが多くてダメだ……という事も指摘されてました。それはそれで残念なことではありますが、指摘されていたミスというのは、いつどの部隊が来たかとかの情報の類で、この記事では『DAK2』のユニットを使用しはするものの別の資料から戦闘序列を構成しているので、そこらへんはまぁあんまり問題ない(でも別の資料で戦闘序列が事細かに分かるわけではないんですけどね〜。詳しい資料とか知らないので……)という事で(^^ゞ また、このページでは戦闘モード(表面)で載せましたが、VASSALモジュール上では移動モード(裏面)で載せてます。そうでないと移動力が分からない。あと、『DAK2』のモジュールを触っていて気づいたのは、実物のユニットだと第7機甲師団所属部隊の右側には「7」とだけあるんですが、モジュールには「7 Arm」と書かれている! こっちの方がわかりやすくていいなぁ……。他にも106RHAとか、ひそかに訂正とかされてるっぽい……。 『ベダ・フォム』のVASSALモジュールは私が作ったんですが、その時にユニット上のエラッタが結構あったんですが、それらは直しておきました。そこらへんやっぱVASSALモジュールは有利ですよねぇ……。 |
第7機甲師団 (第4機甲旅団と第7機甲旅団より成る) |
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11th Hussars(第11軽騎兵連隊) 指揮官はクーム中佐。先発のクーム部隊の中核となった。 |
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3rd Hussars(第3軽騎兵連隊) 第2陣となった第4機甲旅団の一部としてベダ・フォムに5日夕方に到着。 |
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7th Hussars(第7軽騎兵連隊) 第2陣となった第4機甲旅団の一部としてベダ・フォムに5日夕方に到着。 |
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8th Hussars(第8軽騎兵連隊) この時点ではカイロに撤兵していたため存在せず(A)。 |
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1st Royal Tank Regiment(第1王立戦車連隊) 第3陣となった第7機甲旅団の一部としてベダ・フォムに6日15時頃に到着。 |
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2nd Royal Tank Regiment(第2王立戦車連隊) 第2陣となった第4機甲旅団の一部としてベダ・フォムに5日夕方に到着。 |
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6th Royal Tank Regiment(第6王立戦車連隊) この時点ではカイロに撤兵していたため存在せず(A)。 |
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2nd Rifle Brigade(第2ライフル旅団) 先発のクーム部隊にA〜D中隊が参加(B)。旅団中の全部隊かどうかよく分からないが、Dには「歩兵旅団の第2大隊」とあるので、旅団中の第2大隊がA〜D中隊だったのだろうか? |
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1st King's Royal Rifle Corps(第1王立ライフル兵団) 6日夕方にSceleidimaにオーストラリア部隊と共に到着した(C)。メキリにいたわけではないのかもしれない。 |
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その他に、『DAK2』では第7機甲師団所属部隊として7つのユニットが存在する が、ベダ・フォム関係で参照した資料にその名前が出てこない。 |
独立部隊など (クーム部隊へ1個中隊ずつで出てくるだけなので、そもそもこれらの部隊がまとまって存在していたわけではないのかもしれません) |
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King's Dragoon Guards(近衛竜騎兵連隊) この部隊は、到着し始めた第2機甲師団所属の部隊であった(@B)。クーム部隊にB中隊が参加(あるいは参加した中隊がB中隊と呼ばれたのかもしれず)。なお、「新着の彼らは、古兵から砂漠戦の経験を学ぼうと必死だった」という(D)。 |
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4th Royal Horse Artillery Regiment(第4王立騎馬砲兵連隊) クーム部隊にC中隊が参加。 |
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106th Royal Horse Artillery Regiment(第106王立騎馬砲兵連隊:VASSALモジュールのユニットにはRHAの文字が入れられている) クーム部隊に1個対戦車砲中隊が参加。 |
オーストラリア部隊(後回し) | |
↓資料A「The History of the British 7th Armoured Division」による、2月4日の第4機甲旅団がメキリ:El
Mechili(と推測される)から 南西のムスス:Msusへ進発した時の隊列の順序。 ただし資料Aには3つのまとまりが記されているだけなので、一つのまとまりの中の順番は単なる記述順であり、またそれらの部隊間の距離も不明(おそらくこのスケールだとスタックしていたんでしょうが、重ねるとどの部隊か分からなくなるのでずらして表示してあります)。メキリの北東に置いてある部隊は、後発の部隊で、第7機甲旅団を構成したと思われる。本来は第7機甲旅団は第4機甲旅団と同規模程度だったのかもしれないが、この時は第7機甲旅団の多くが第4機甲旅団に配置換えされていた。 |
資料Aによると、この時の第7機甲師団の戦車戦力は「深刻な状況で、具合の悪い計80輛の軽戦車(これらは主力戦車としては役に立たない)と、たった40輛のA9、A10、A13巡航戦車が2pdr砲と共にあるだけだった」。この数値は@の挙げる数値と一致する。 また、マップ上に配置した部隊が完全戦力で進発したわけではなく、第11軽騎兵連隊はA中隊とC中隊、近衛竜騎兵連隊は1個中隊、第106王立騎馬砲兵連隊からは1個対戦車砲中隊のみ。その他は記述がないため完全戦力か。また、2つめの集団(第3、第7軽騎兵、および第2王立戦車)には総計50輛の巡航戦車と95輛の軽戦車があった(とAに書かれているが、前述のAの第7機甲師団全体の戦車戦力よりも多いのはなぜ?)。Dによると、軽戦車95輛は「Mk.Y軽戦車」だった(Bによると「マークYb軽戦車」)とあり、その他の点ではこの後者の記述に完全に一致する。 Dによると、戦車部隊が給油のために停止すると、装輪車輌部隊である2Rifle、4RHA、106RHAが戦車部隊を追い越して前進を続けたという。 EのP83〜4にかけて、この行軍の詳しい描写がある。 @の描写は以下の様な感じ(訳がテキトーです)。 「オコンナーは、補給の欠乏、諸戦車の状態がよくないこと(ぎりぎり40輛の巡航戦車が、80輛の軽戦車と共に使用可能だった)、そしてメキリとムススの間が浸透可能なのか土地の状況がよく分からない状態であったが、決断を下した。彼の狙いは、SoluchとGheminesの間を退却するイタリア軍の隊列をカットするために、即座にMechiliからMsusにかけての開けた砂漠をまっすぐ150マイル前進することであった。その前進は4日に開始され、わずかながら使用可能な空軍機にサポートされることになっていた(実際にはエンジンの不足から地上目標への戦闘機の攻撃は中止せざるを得ず、ゼロだった)。一日目、機甲部隊が補給を行う横をトラックの部隊が進み、2日目以降の補給は大きな護送隊で追従していた。しかし、たとえ部隊全体が時間通りに進撃できたとしても、補給は数日分もなかった。そのため決定的な戦闘は3日以内に完了せねばならず、弾薬やガソリン、水の不足から作戦が失敗する可能性もあったのだ。 イタリア軍のTellera将軍はすぐ、新しい脅威に気づいた。イギリス軍の第11軽騎兵連隊の通信が傍受され、その内容は「Soluchが目標である」というものだった。そのことから、「今夜イギリス軍の機械化部隊がMsus、あるいはSceleidimaに、ライトを付けたままの行軍で到着するだろう」と推測された。Tellera将軍は、できる限りの対策としてイギリス軍の通り道に飛行機から「thermos bomb」を少量撒かせ、また山岳地帯を通るイタリア軍主力の撤退のスピードを上げさせ、少しでも衝突への時間を稼ごうと、即席で編成した派遣隊をMsus、Sceleidima、Antelatの砦に送り込んだ。 イギリス軍Msusへの行軍は、非常に大きな困難を伴ったが、それは彼らがかつて通ったことがない過酷な地域の自然環境がもたらしたものだった。岩がすべての移動を邪魔した。特に、小さな軽戦車は決してクロス・カントリー向けではなかった。第1王立戦車連隊のある戦車大隊指揮官はこう回想している。「この行軍はまったくの悪夢だったし、私はそれについてほとんど思い出せない。なぜならそのほとんどの時間をひどく疲労していたし、戦車の跳ね上がりで打撲を負っていたからだ。ひどく寒く、ほとんど一日中砂嵐が降ったり吹いたりしていた。……日中は私の大隊は、最も通りやすい荒れ地や岩地を探すという任務のため、非常に散らばって配置されていた。よくあったことだが、戦車が壊れるとクルーはその位置を報告し、師団整備班が戦車をトブルクに牽引していくまでそこにとどまらなければならなかった。」 ある軽戦車のクルーたちはこの帰路で道に迷い、砂にHELPの文字を描いたが、それがイギリス空軍の飛行機のパイロットの目に止まるまでの3週間を、3日分のレーションだけでかろうじて生き延びたのだった。」 |
2月4日午後、ムススに到着した第11軽騎兵連隊は1530時までに、イタリア軍の小部隊がいたムスス砦を一掃した。戦車部隊(第2集団の第3、第7軽騎兵、および第2王立戦車連隊のことだろう)のムススへの到着は夕方になると見られた。 ところがそこに彼らを急がせる報告が届いた。一機の大胆不敵なハリケーンが偵察してきたところによると、大規模なイタリア軍の隊列がすでにベンガジから南に向かっており、事実上、敵の全軍がトリポリタニアに向けて移動中だというのだ。 実際にはこの報告は一部事実ではあったが、一部は間違っていた。ベルゴンツォーリ将軍の第20軍団の大部分は、Barceから退却してきた補給部隊を引き連れた戦車師団と共に、まだベンガジの東数マイルのところにいたのである。ハリケーンのパイロットが見たのは、移動し始めた隊列の大集団の一部だった。 しかしこの情報はイギリス軍部隊の行動を急がせるに充分なものだった。戦車部隊が到着しても、戦車の補給やメンテナンスにさらなる時間が必要なことが見込まれ、スピードが必要な事は明らかであったので、戦車よりも速く動ける装甲車と、ブレンガンキャリアーに乗った第2ライフル旅団の歩兵(彼らは戦車部隊の後方を走っていたが、追い抜かしてしまっていた)が第11軽騎兵連隊と一緒に、主力よりも遙か先に進むことにした。 これらの部隊は第11軽騎兵連隊の指揮官であったJohn Combe中佐の指揮下に置かれたため、「Combeforce(クーム部隊)」と呼ばれ、約2000名の人員であった。 クーム部隊の編成は次の通り(@とAによる。一部食い違っている)。『DAK2』のユニットを『ベダ・フォム』のユニットに置き換えてみる。『ベダ・フォム』では車輌部隊をユニット化する際に部隊規模ではなく「6〜8輛」程度を1ユニットとしているので、厳密に1ユニットが1個中隊という様なわけではない……のかもしれないが、結局6〜8輛で1個中隊なのかもしれない。。 |
→ | 第11軽騎兵連隊全体。もともとA中隊とC中隊のみがメキリから進発していたため、それらのみか。ただしメキリから進発した部隊はすべてクーム部隊に参加したのであろう。 | ||
→ | 第2機甲師団所属の近衛竜騎兵連隊から、1個中隊。これもメキリから出発したもの全体か。この部隊は第11軽騎兵連隊に配属された。結局このクーム部隊の軽騎兵連隊全体で装甲車は25輛しかなく、しかもそれらはすべて旧式のロールス・ロイス製であった(Wkipediaのロールス・ロイス装甲車を参照)。 | ||
→ | 第2自動車化ライフル旅団。A〜D中隊が参加。 | ||
→ | (なし) | AによるMsusから出発の時の説明にあるが、Aのメキリ出発の時にこの部隊の名前はない……。@にもこの部隊だけは記述がない。 3rd Royal Horse Artillery Regiment(第3王立騎馬砲兵連隊)のD中隊からの2ポンド砲(A)。 Aの中の2ポンド砲の説明。Wikipediaの2ポンド砲の項目。 |
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→ | 第4王立騎馬砲兵連隊のC中隊。@によると、25ポンド砲を装備していた。 | ||
→ | Aによるメキリ出発の時に名前があるが、Msus出発の時に名前がない。3RHAが間違って記されたのか? 第106王立騎馬砲兵連隊から1個対戦車砲中隊。@によると、9門の37mm対戦車砲をトラックに乗せていた。 Aの中の37mm対戦車砲の説明(下にスクロールしてください)。Wikipediaの37mm対戦車砲の項目。 |
↑エル・メキリ〜海岸道路辺りの『AfikaU』の地図。右上にメキリ、左上にベンガジ、真ん中やや左にムスス、左下にベダ・フォムがある。
クーム部隊に与えられた任務は、可能な限り速やかに海岸道路をカットすることであった。Sceleidimaは規模は不明ながらイタリア軍部隊によって占領されているという情報があったので、(Soluch〜Gheminesの方向を目指すのではなく)Antelatを経て移動する事に決定し、Beda
Fommの近くの海岸道路をカットする事になった。 @による描写。 「5日の夜明け直前、クーム部隊は戦役全体における最も重要な旅程と成ることになった最後の行程を開始した。先頭には彼らの古いロールス・ロイス装甲車が進んでいた。その後ろには、なだらかに波打つ砂漠を横切って揺れながらトラックとライフル旅団のブレン・ガン・キャリアーとそして大砲、発動機と砲座がリズミカルに揺れ軌跡を残しながら続いた。猛烈なほこりが吹き − 攻撃を散らすために低高度に急襲する数機のイタリア軍の飛行機が数マイル先に見えている − 車両の指揮官は地図に載っていない土地を横切るコースを見定めようと必死になっている。地図はなく、舵を取るための目印もほとんどなかった。コンパスの方角は曖昧に西方の目標(そこは敵によって取られているかもしれないし、取られていないかもしれない)を示しているだけだった。ほんの2000名ほど、対戦車ライフルにも劣る様な武装を付けたわずかな数の装甲車、それに頼みの綱の部隊 − 王立騎馬砲兵連隊の15種類もの大砲 − によって援護されたマシンガンがあった。彼らの希望といえば、これらの大砲でイタリア軍の戦車を撃破できるかもしれないという事だけだった。3時間以内のところにはまったく友軍の戦車はいなかった。 しかし第4機甲旅団は【第2陣として】3個連隊分の【戦車】戦力を前線に送り込んでいた。第3および第7軽騎兵連隊と、第2王立戦車連隊である。それは第7機甲旅団を犠牲にして編成されたもので、前線【ベダ・フォム】への途上にあった。そしてその間に、第1王立戦車連隊と支援グループの残余がSceleidimaに対して攻撃を加えることになっていた。」 Bによると、「ベダ・フォムの戦いにおけるイギリス軍の主力戦車はA-13巡航戦車とマークYb軽戦車だった。第2王立戦車連隊には、他に少数の旧式A-10巡航戦車があった。巡航戦車は2ポンド砲を装備、歩兵戦車は機関銃を1丁だけ装備していた。」 第2陣の編成を以下に示す。2-3-7のユニットがA-13巡航戦車、2-3-6がA-10、2-1-8がマークYb軽戦車であろう。 |
→ | 第3軽騎兵連隊の巡航戦車×7、軽戦車×14。 | ||
→ | 第7軽騎兵連隊の巡航戦車×1、軽戦車×19(巡航戦車1輛は軽戦車ユニットの中に含まれてユニット化されたのであろう)。 | ||
→ | 第2王立戦車連隊の巡航戦車×19(うち移動力が6のものが旧式のA-10巡航戦車を表していると見られる)、軽戦車×7。 | ||
第4機甲旅団司令部の軽戦車×4。 | |||
第4機甲旅団の?砲兵中隊×2と対戦車砲中隊×1という事だろうか。 |
クーム部隊は海岸へ向かって機動を続け、ベダ・フォムの北東(Aによる記述。具体的にどこかは不明)を朝遅くに通過し、ベダ・フォムの10マイル南のSidi
Saleh近くの海岸道路を見いだしたのは昼頃であった。@によれば海岸を見つけたのは第11軽騎兵連隊のC大隊であった。 Dによる描写。 「【クーム部隊の】先鋒部隊はその日、すぐにムススのイタリア軍砦にとりつき、簡単な戦闘の後に占領した。その間に第二梯団は側面をすり抜け、岩だらけの荒野を前進して、シディ・サレーのアンブッシュ地域に前進した。彼らが目標地点に到着したのは翌5日の昼過ぎだった。 彼らはじつに240kmの道程を、わずか30時間で前進したのである。これはドイツ軍にも負けない電撃戦であった。 いっぽう海岸沿いのデルナには、第19オーストラリア旅団が前進していた。30日にデルナを占領した旅団は、2月5日にはバルスへ達した。 そして、停止することなく前進をつづけ、6日にはベンガジを占領した。彼らに追われてイタリア軍は、争って海岸道路に殺到した。 第二梯団とイタリア軍部隊とのファースト・コンタクトは、午後2時半のことだった。 海岸のゲミネスの方向から、道路上を巨大なコンボイの隊列が土煙をあげて走ってきた。その兵力は2万はありそうで、第二梯団の兵力の10倍はあった。」 Bには、「2月5日12時30分頃、クーム部隊が海岸道路に到達したのとほほ(ママ)同時にイタリア軍の縦隊が姿を現する(ママ)。」とあり、12時50分にはイタリア輸送隊へのイギリス軍の攻撃が始まったと記述されているが、他の多くの資料はクーム部隊の海岸への到着を14:00頃とし、イタリア縦隊の到着を14:30頃としている。 Cによる描写。 「2月5日の正午過ぎ30分ほどで、Combeforceはベダ・フォム近くの道に到着し、急いで道路を封鎖した。歩兵は約2時間後に最初のイタリア軍が到着する前に陣地を掘りわずかな地雷を敷設する時間もほとんどなかった。」 @による描写。 「正午近くに第11軽騎兵連隊のC大隊が視界に海岸をとらえた。彼らの嬉しい知らせはCombeにとって慰めのようであった。その道路はほとんど空だった。退却しているイタリア軍はまだ到着しておらず、待ち受けるための準備をする時間があった。その土地の価値を素早く認識し、彼は守ろうとしなければならなかった。 Combeは北から南へ走る道路を横切って通り過ぎ、浅い稜線の系に部下を送り込んだ。ここで歩兵は塹壕を掘り(彼らのキャリアーの大部分はそこでガソリンを使い果たしたのだった)、自分たちの前面に少数の地雷を敷設し、そしてのちに彼らの左側面の海岸と道路の間の砂丘でそれらを使い果たした。不法占拠した野砲の背後でその間対戦車砲が歩兵の間に立ち、そしていくつかの装甲車が万一の時に行動するよう、砂漠側の側面をカバーするためにスタンバイしている。その間KDG大隊は後方を守るために南へ移動した。 それ以上は、希望を持つ他にできることはなかった。希望というのは、イタリア軍がすぐにこの軍の弱点と、第4機甲旅団が到着するまでの砂漠側の弱点を見抜かないでおいてくれる、ということだった。イタリア軍の主力の到着が遅れれば遅れるほどCombeにとって有利であったが、しかし2:30、まだ日没まで4時間残っている時に、明らかに終わりの見えない隊列の最初の車両が地平線を越えて現れた。その隊列は隙間なくコンボイが道路を埋めていた。そして彼らはまっすぐにHussarとライフル旅団によって待ち伏せを準備されたところに向かってきた。 Beda Fommの戦いが始まったのだ。」 |
(↑コマンドマガジン日本版89号『BEDA FOMM』を用いたクーム部隊の到着と配置。ただし配置はかなりよく分からないため、結構適当である)
クーム部隊の配置はBによると以下の通り。 「クーム部隊はこれ【イタリア軍縦隊】を封鎖する陣形を敷いた。第2ライフル旅団と対戦車砲は道路の左側、海との間にある砂丘に配置された(ヘクス1631と1732)。C中隊はその後方から支援、KDG(近衛竜騎兵)のB中隊はさらにその南方、封鎖を突破してきたイタリア軍の遊撃に備える。軽騎兵連隊は敵軍の側面迂回に備えて北東に展開する。」 同じくクーム部隊の配置に関して、Aは以下の様に描写する(ただし非常にわかりにくい)。 「【12:30〜14:30の?】2時間以内に、第2ライフル旅団の1個中隊が道路を横切る場所に、【25ポンド砲装備の】第4王立騎馬砲兵連隊のC中隊によって占められた位置をスクリーンする形でもう2つの中隊とともに位置した。第4王立騎馬砲兵連隊の指揮官はJock Cambellであった。 ライフル旅団のライフルとマシンガンのA Companyはすぐにイタリアの隊列を停止させた。これは第11Hussarの?C Squadronと第4王立騎馬砲兵のC Batteryによってうまくサポートされていた。 交通渋滞が始まり、イタリア軍は砂漠を横切って扇形に展開し、南への道を探り、そうして彼らはもっと多くのクーム部隊と交戦することになった。彼ら(イギリス軍部隊)は、イタリア軍の隊列のトラックが14:30頃に道路にやってくる前に、A中隊とライフル旅団が彼らの道をブロックするのを見つけ、ようやくポジションに着くだけの時間しか持っていなかった。 第2ライフル旅団の配置は以下の様であった。ライフル旅団のA中隊とB中隊が道路にまたがって位置し、それにともなってS中隊が道路から海へと広がる。C中隊は背面500ヤードのところに位置する。」 |
イタリア軍の隊列がこの海岸道路に到着し始める。 Bによる描写。 「12時50分、先頭のイタリア軍部隊である少数の兵士に護衛された輸送隊に対して攻撃が開始される。 混乱のため、どのイタリア軍部隊から戦闘に参加したのか確かなことは言えないが、わかっている限りでは輸送隊を護衛していたのはチレネ、マルマリカ師団の残存兵で臨時編成された2個大隊、ブレシア、サヴォナ師団の機関銃大隊2個、第10ベルサリエリ連隊の3個大隊、サブラサ師団の主力で、縦隊に分散して配備されていた。また、多数のイタリア軍戦闘部隊の敗残兵(非戦闘員)も入り交じっていた。 道路封鎖を突破するだけの歩兵戦力も、軽騎兵連隊の装甲車を追い払える機甲戦力も持たないイタリア軍縦隊は苦境に立たされた。それから数時間、新たな部隊が続々と前衛部隊の背後に押し寄せ、深刻な交通渋滞を引き起こしていた。」 Cによる描写。 「イタリア軍は彼らの戦力をBabini機甲旅団を含む後方に集中させ、彼らは常に監視していた。彼らの戦闘部隊のほとんどは依然としてまだ北方にあり、Combeforceに対する彼らの渋滞の大部分は管理関係部隊から成っていた。 道路封鎖への圧迫が始まり、第4機甲旅団が東から午後遅くに縦隊へ攻撃をかけるために到着した。オーストラリア部隊にその後尾を圧迫されたため、Bergonzoliは翌日に英軍機甲部隊の警戒線を突破するための計画を必死に検討した。砲兵は今やBabini機甲旅団の最初の60両の戦車と共に大量に到着し始めていた。この支援と共に、彼らはCombeforceによって塞がれたドアに対してむきになって激しく当たった。」 @による描写。訳が苦しくて苦しくてしょうがない……。 「退却中の隊列のメンバーの心の助かった状態というものを想像してみて欲しい。彼らは安全のために道路を突進し先導している。前線から100マイル以上離れていると思われているところだ。道路は見たところでは敵から遠く離れており、急襲や干渉からは免れている様に見える。飛行場のメンテナンスクルー、基地の兵員、重砲兵、植民地住民の管理者、恐怖におののいている市民などの雑多な集団から選ばれてエスコートの役に就いていたイタリア軍の第10Bersaglieriの考えはトリポリへの道を進むというものだった。2月5日の2:30にはAgedabiaの25マイル北で、遙か北西のBarceからベンガジにも迫っていた恐ろしい敵からの彼らの脱出はうまくいったと自信を持った。彼ら全員にとって不安からの解放は確実なものに見えた。その間後衛はベンガジの東方にいて、独力でなんとかやっていたのだ。 そこで即座の幻滅 − いきなり現れた敵の装甲車が丘の頂上の近くを素早く横切った。マシンガンの発射音が隊列を引き裂き、トラックから飛び降り、降りた人々を撫で斬りにした。そして全くの思いがけない攻撃によって全てが恐慌を来した状態に投げ込まれた。そしてすぐに、小型武器が加わり、また重火器も加わって、徐々に強力な爆発の爆音が切り裂いた。そしてイタリア軍の隊列の指揮官にも以下のことが理解され始めた。これはただの、孤立したイギリス軍小部隊による奇襲などではなく、強力な部隊による決然たる攻撃だということに。部隊はさらに、道路上の前進を先導車の下で地雷を爆発させることで効果的にブロックしていた。 今や、より少ない戦闘員の精神が降伏しがたいということを探していた、飛びすぎるイギリスの装甲車と彼らの動きの速い歩兵、第10Bersaglieriはこの道をクリアするために急いで準備された、いくらかの降車、そして散開隊形で前進し、道路を下った、他の部隊が代替の道を探して東へ砂漠を通って行っていたり、あるいは海に近い砂丘の間を探している間に。イタリア軍側の視点からは、このような即座の行動はむしろ砲兵にとって効果のないもので、彼らはこの時この時間ほとんど話すことなく − そのほとんどは北方の後衛部隊を助けることに参加 − 彼らの敵に関しての情報はほとんどないも同然だった。それゆえ噂はあらゆる側面から作り出された脅威を単に誇張しているにすぎず、効果的な中和作用を妨げた。」 |
最初の戦闘に関する描写の量は少ない。イタリア軍の最初の試みは簡単に撃退されてしまった。 @による描写。 「まだイタリア軍の攻撃は増加していた、それぞれの探索はCombeまでの前任者よりもやや強くなって、は拡張するように強いて、彼の活動の範囲を広げ、道路と海の間のギャップをカバーするための歩兵の警戒線を排除し、道路(そこにすでに配置されていた背後の予備中隊がいて)上のメインポジションをこわばらせ、予備中隊の背後に25ポンド砲を送って活動させ、増加する捕虜のための檻を建設し(一つの小隊のみがこの仕事に割くことができた。この仕事は何百もの人命(そのほとんどは無抵抗だったが、安全になったと見るといくらかの者は攻撃的になった)を引き受けた)、そして砂漠側で巧みに彼の装甲車を操縦した、その方向からのやってくるかもしれない側面からの深刻なイタリア軍の攻撃をやめさせるために。しかしCombeにとって幸運なことに、イタリア軍の前衛(先駆者)は戦車を持っておらず、そしてそれはほとんど本当に砂漠に適した隊列ではなかったので、撤退した。最初に到着したそれらはその道路に近接したところで戦わされ、それゆえそこだとはっきりわかるような場所に直接いたし、容易に中心線をブロックできた。それにも関わらず非常に大量の車両が北方に2段になって蓄積されていく壮観な光景は、きわめて少数だったイギリス軍部隊にとって、かなり畏敬の念を起こさせるものだった。その間Combeは、イタリア軍の打撃部隊の主力が差し向けられ現れるまでのこの緊張状態を助けてくれる第4機甲旅団の到着を待ちわびていた。彼はすでに北方を偵察していて発見していた、ある小さな白いモスクの近くに、戦車の行動に非常に適した地形が盛んにあることを、長い一連の丘陵で、南北に走っており、その襞(小さな谷)の部分が戦車の様々な角度からの道路に対する近距離の位置からの射撃のための操縦を隠してくれる。」 Dによる描写。 「イタリア軍はなにも気づいていなかった。彼らはイギリス軍部隊は、はるかかなた240キロも後方にいるものと思い込んでいたのだ。 突然あらわれたイギリス軍を前にして、イタリア軍はパニックにおちいった。彼らは協調した行動がとれず、バラバラに攻撃して撃退された。また、正面攻撃をくり返すだけで、ブロックされた道路を迂回しようともしなかった。 このため、何度もくり返された突破のこころみは、すべて撃退された。最初にあらわれたイタリア軍部隊は雲散霧消した。 しかし、袋のネズミとなったイタリア軍の兵力はあまりに圧倒的で、いつまでも第二梯団だけでは対処できそうにない。」 |
第2陣が到着するまでの描写は@が非常に詳しい。第2陣である第4機甲旅団に対してCombeは通信でイタリア軍縦隊の中央部、ピンプルの辺りへ前進してもらうよう頼んだ。 ピンプルへは第2王立戦車連隊が向かい、その北側を第7軽騎兵連隊が支援し、さらにその北を第3軽騎兵連隊が攻撃した。この際、第2王立戦車連隊の2人が2両のM13を徒歩で捕獲した。 軽騎兵達は夕食を用意中のイタリア軍縦隊を見つけ、銃を乱射。イタリアの半/非戦闘員らは一発も撃ち返してこず、大量の捕虜とガソリンを得た。信号弾で脅していただけのイギリス兵に対してアメリカで11年暮らしたことがあるというイタリア兵がアメリカ英語で話しかけてきて礼儀正しくピストルを渡してきた。 Dによる描写。 「夕方になると主力の第4機甲旅団の先鋒部隊の第7軽騎兵連隊が到着し、すぐに2コ連隊がつづいた。イギリス軍は、ようやく一息つくことができた。 戦車部隊の保有する巡航戦車は十二分にその機動力を発揮し、戦機に間に合ったのだ。途中で落後したのは、わずかに3〜4両にすぎなかった。 (中略)彼らは第二梯団より北方、シディ・サレーとベダ・フォームの中間に布陣した。 この戦闘でもっともはなはだしい戦果をあげたのは、A13Mk,V戦車を装備した第2王立戦車連隊A中隊だった。(以下、プロー少佐の話。2両のM13を2人で降伏させた話も)」 Cによる描写。 「夕暮少し前に第7機甲旅団が現れて、イタリア軍はイギリス軍は有り余る機甲予備を持っているのだと確信したが、実際にはこの部隊は11両の巡航戦車から成っているだけだった。」 Aによる描写。若干6日にもまたがりあり。 「クーム部隊は自分たちがイタリア軍全体の退却路上にいる事に気づいた。A中隊と(?)快速のA13戦車6輛を持った第2王立戦車連隊によってサポートされた、第7軽騎兵連隊がBrigade Caunterによって、ベダ・フォム近くの道路上のイタリア軍を攻撃するように命令されたのはその時であった。その軽騎兵連隊はある輸送隊列を撃破し、そしてA中隊と第2王立戦車連隊はちょうど1800時前に行動に加わった、彼らがイタリア軍歩兵隊列を攻撃した時。この行動の最中、第2王立戦車連隊のある部隊は、徒歩で2輛のイタリア軍M13戦車を捕まえた、それぞれの上にジャンプして、ハッチを開けた後、ピストルを突き付けてクルーに降伏するように強制して。 その戦いはその道路の両側で終日続いたが、圧力の増大と弾薬の減少にも関わらず、ライフル旅団と第11Hussarは持ちこたえ、5日から6日の夜の間中散発的な戦闘の中、その道路を封鎖し続けた。10:45には土砂降りの中、少数のL-3軽戦車によって支援された第6のいくつかのBersaglier部隊が、11Hussarsと第2ライフル旅団によって防御・道路封鎖された場所へ攻撃をかけてきた。この攻撃は3つの縦隊から成り、それぞれが300のvehicleを持っていた。やや白熱した2回の攻撃は撃退され、イタリア軍は対戦車砲によって交戦した後降伏を始めたが、3度目の断固とした攻撃を撃退するためにもう一時間が使われ、また大砲と戦車による支援が行われた。捕虜の数は数千にものぼって南へ向かい、KDGもまた彼らの得た捕虜のあまりの多さに当惑することになった。この戦いの間中、捕虜の途切れることのない流れが次々と現れ、それらは全て急いで武装解除され、第2ライフル旅団のC中隊のある小隊によって守られた即席の「cage」の方向に送られた。6日金曜日に第4機甲旅団の残りが到着し、ベダ・フォムの遙か北のイタリア軍の側面を攻撃した。それによるイタリア軍の敗走は完璧なものだった。」 @による描写。 「7:30に第4機甲旅団はCombeforceをフォローしはじめた。その軽戦車と少数の第7Hussarの巡航戦車が先導して、付き従い、2マイルほど後方に、第3Hussar、旅団司令部、第4RHA、そしてその次に第2RTRに属するA9とA13巡航戦車が、付き従っているD Bty 3rd RHAの対戦車砲と共に。感熱爆弾の帯は最初一列縦隊で切り抜けねば成らず、これが進行を遅らせた。しかし40マイルの旅程の後、16:00までに先行部隊はAntelatにいて、Beda Fomm近くでの猛烈なCombe部隊の戦闘の強力で切迫した通信メッセージをすでに受け取っていた。極めて重大なことに、Combeはイタリア軍隊列に対して最もプレッシャーを与えるための最も適したアプローチ線のCaunterアドバイスを利用することができた。彼は考えたのだ。もし機甲旅団がかのモスクのそばでメインの強さを確立することができて、同時にイタリア軍隊列の長さに対していやがらせをすれば、Combeforceの中央と側面からのプレッシャーが助かるだけでなく、大きく広がった敵集団が気を散らすかもしれず、そして詳細に包み込んだ。Caunterのアドバイスに基づいて行動し第7Hussarを急派し、砲兵に随行され、道路を全速力で、第3Hussarを北東SoluchとSceleidimaへトラックをブロックするためにずらせた、そして第2RTRをモスクへ、第7Hussarの援護のために送った。 午後遅く、軽?3つの全機甲連隊は西方へ疾駆した、わずかな小さい砂丘しかない表面が破壊された砂ばかりの平らな砂漠から粉塵を巻き散らせながら。すぐに彼らは低い丘陵の間の波状の場にいる状態になり、頂から第7Hussarは彼らの目標物を前方に見ることができた、イタリア軍車両の長いコンボイを……不幸にもそれはこの戦いの決意のために待っていた、まだ南へぱちゃぱちゃと離れていく戦いを − 彼らの脱出路が確保されたという合図を待ちながら。攻撃のためにHussarから出された命令はすでにpassされていた − ガソリンを使い果たしていたためそれらの戦車のうちのこの部分にとっては従うことが不可能、そしてそれらにとって危険に満ちていた、それらはいつ何時同じ困難に直面するかもしれない。燃料計器はLowを下回っており、しかしターゲットはすばらしく儲かるほどの光景だった、トラックが道路の端に駐車しており、それらの乗員は夕食を用意しており、Hussar達にとってまったく誘惑を抑えがたいものだった。エンジンを空回りさせ、キャタピラをぴしゃっと打ち?フルスピードで轟音を上げながら、タレットをターゲットに旋回させつつ、目に入る全ての車両を機銃掃射するために彼らはその隊列の長さを左から右へと狙いを付けつつチャージ(突進?)した。ほとんどの間、それらのターゲットからほとんど一発も打ち返してこない、は半 − あるいは非戦闘員 − 戦いの不作法な行動へと吹き込まれておらず派遣されたことによるのだろう。多くのイタリアのドライバーは狂ったように走るかあるいは運転して砂丘に入り、そこにはまってしまうか(車を?)失ってしまった。ガソリントラックは炎上し、機銃掃射員にとってよりよい練習と成るようそのシーンを明るく照らしたし、だんだん火が弱くなっても東方からまだ到着し始めている戦車にとってのビーコンとなった。少なくとも、局所的に、イギリス軍の戦車の優勢は完全で、RHAはその砲を使用する必要をとっておいた(免れさせた)。彼らはいともたやすく一網打尽にされて車から降り、およそ800人が捕虜となり、生き残っていたそれらのトラックをサルベージしたが、特にガソリンが含まれていたそれは皆が必要としていたものだった。戦場で枯渇してしまっていたものがそこで補給できてありがとう。最も奇妙な出来事はまるごと面白いシーンで述べる − あるHussarの軍曹が、彼の捕虜たちを単なるシグナル・ライト・ピストルで脅していたら、アメリカで11年暮らした事があるというあるイタリア人がアメリカ英語のアクセントで話しかけてきて礼儀正しくオートマティックピストルを手渡してきた。しばしば捕虜達が彼らを捕らえる(ようとする?)人に対して当惑しないで、めったに退屈な管理上の諸経費をプレゼントしない − 風車によるポンプでたっぷりとある水を供給する地方であるBeda Fommでは問題はより易しかった。 第2RTRからの7台の巡航戦車は、その間、第7の北へ切り込み、Benina飛行場から砲を抱き上げて対空砲中隊全体を再編成した、その時、人々やトラックは燃え上がる車両の光に照らされていた。しかしここで、停止がコールされなければならなかった。まさに、それらのイタリア人はよろよろ歩きで、その前にいつか再び前進できて付き従っていける?? − 特に今、Combeforceはプレッシャーが軽減され、夜の間にその位置を強化できた。しかし第4機甲旅団は、戦車のためにガンナービークルからガソリンを吸い上げるために減少し、敵のガソリン補給に寄生して生計を立て、再びいっぱいにしなければならなかった、夜明けのためにより注意深く準備し、というのは予想されるような突破のためのイタリア軍大部隊の努力が夜明けにあるだろうから。本当に、警戒態勢を解くための命令が出されたにも関わらず、イタリア戦車が到着するのが聞こえ、2つは道路上の暗がりの中(あるいは憂鬱な気持ちになって)に配置された。しかしながらどちらも、追撃を熱望してはいなかったし、どちらも第2RTRからの部隊が彼らのハッチトップを順々にノックした時に諦めた、ピストルを突きつけられ、追っかけられていたそれぞれのクルーは降伏した。 イギリスの戦車が道路から2マイルほどもleaguer(連盟加入者?)の中へ撤退している間、補給トラックが着いたので補給し、捕虜の大群を見守り続けていた、戦いはRB歩兵がパトロールする南で穏やかに低い音を立てていた、2つの第106RHAの対戦車砲をエスコートしながら、遙かに優勢な強さの印象を与えながら違う場所で様々な場所から敵の隊列を上下移動して燃やしながら。もし受けた物質的ダメージがわずかだったなら、士気へのダメージは非常に大きなものだった。少なくとも、その夜は本気で脱出路が再び試されたことはなかった、その間に地雷原が厚くでき、歩兵の防御態勢を深くでき、弾薬を補給でき、兵員はできるだけ食事と睡眠を取った。次の日は、全員が分かっていたことであるが、長くつらいものになるだろう。それに加えて歩兵は戦車と装甲車にガソリンを盗まれて以来、貼り付いて動けなかった。彼らにできることは穴を掘って祈ることだけだった。」 |
Aによる描写。 「 その戦いはその道路の両側で終日続いたが、圧力の増大と弾薬の減少にも関わらず、ライフル旅団と第11Hussarは持ちこたえ、5日から6日の夜の間中散発的な戦闘の中、その道路を封鎖し続けた。10:45には土砂降りの中、少数のL-3軽戦車によって支援された第6のいくつかのBersaglier部隊が、11Hussarsと第2ライフル旅団によって防御・道路封鎖された場所へ攻撃をかけてきた。この攻撃は3つの縦隊から成り、それぞれが300のvehicleを持っていた。やや白熱した2回の攻撃は撃退され、イタリア軍は対戦車砲によって交戦した後降伏を始めたが、3度目の断固とした攻撃を撃退するためにもう一時間が使われ、また大砲と戦車による支援が行われた。捕虜の数は数千にものぼって南へ向かい、KDGもまた彼らの得た捕虜のあまりの多さに当惑することになった。この戦いの間中、捕虜の途切れることのない流れが次々と現れ、それらは全て急いで武装解除され、第2ライフル旅団のC中隊のある小隊によって守られた即席の「cage」の方向に送られた。6日金曜日に第4機甲旅団の残りが到着し、ベダ・フォムの遙か北のイタリア軍の側面を攻撃した。それによるイタリア軍の敗走は完璧なものだった。 しかしながら、すぐに破局は訪れず、そのイタリア軍たちは彼らの攻撃を、不屈の精神とますます増加する死にものぐるいさとで徹底的にやり続けた。なぜなら彼らは数と弾薬の補給の多さで特に勝っていたのだ。道路を封鎖した場所の7マイル北にはこの辺り唯一のランドマークがあり、そこには一つの白いモスクと2つの風車が、ピンプルと呼ばれる低い尾根に接するようにしてあった。第3と第7Hussarsからの軽戦車がイタリア軍縦隊の広大な側面を何度も攻撃し、多くのイタリア砲兵と交戦したのはこの場所の北だった。しかし、その19の巡航戦車を持った第2RTRが最も多くのダメージを与えた。第3Hussarsはピンプルの周りに8台の軽戦車を配置し、次々に襲ってくるイタリア軍戦車を撃破した。それらは30回にもわたって道路を下ってきたが、結局ハル・ダウンしていた第2RTRの巡航戦車に出会うだけの結果になった。第2RTRは恐らく3日間の戦いで総計100台の戦車を計上したが、イタリア軍砲兵の方は第2RTRの戦車4台を何とか撃破しただけだった。その(第2RTRの?)戦車のうちの1両は2ポンド砲を112発撃つ過程で少なくとも10両のM13を撃破した。ある時には弾薬が実際に尽き、第7Hussarsと第2RTRの作戦可能な巡航戦車が10両にまで低下した時までに、しかし補給トラックが1300時に到着した。 戦いの間にピンプルの所有者は何度も入れ替わり、道路封鎖(の場所?)では第2RTR旅団はイタリア軍が砂丘を通って海にまで行こうとする浸透を止めなければならなかったが、第4RHAの大砲からの支援射撃はすばらしく、それらによって約6両のイタリア戦車が撃破された。しかしながら、この真っ昼間にこの戦いの重要点に到達した。 第3と第7Hussarsの軽戦車は前進するイタリア軍歩兵の縦隊を非常に効果的に粉砕したが、彼らはイタリア軍のM13戦車からの射撃に対しては脆弱だった。それらの戦車と25ポンド砲の弾薬は不足し、砲兵のための前進観測配置(兵)は撃破されてしまった。師団予備から第1RTRを解放するように多くの要求が出されたのはその時で、それが最後の(予備?)だった。第1RTRは、第7Hussarsと第2RTRが再補給と再武装のために、ピンプル上の風車のうちの一つにまで到着した。第1RTRからの巡航戦車の指揮官は、その光景を見渡し、それぞれの方向を数マイルにわたって見て、その道路がトラック、大砲、車、バス、そして戦車でいっぱいであるのを見た。第1RTRは彼らが持っている武器を全て撃ち、その縦隊は全ての方向へ散り散りになった。イタリア軍砲兵のうちのいくらかは戦闘に参加し、イギリス軍戦車に命中弾を与えたが、ダメージを与えることができなかった。第1RTRの到着は第4機甲旅団の危機を回避した、正午にはピンプル上で稼働できる戦車はたった6両しかなく、残りは撃破されるか、故障したか、あるいは再補給中であった。他の場所では、第106RHAのあるBattery 指揮官(Major Bruton)が、見ていた最後の大砲クリューがイタリア軍のマシンガンによって全滅させられてしまい、そのporteeをチェックしに退却したらそれはまだ動いた、which it was。それで彼と彼の当番兵とは、返礼として5両のM13を破壊するために前進した。 14:20にはイギリス軍はあるイタリア軍縦隊を攻撃し、その約1時間後には、イタリア軍戦車が北東の方向に逃げようとしているという報告があった。午後の間の戦闘ではイギリス軍はバランス上互角の戦いをしたが、予備の戦車はなく、イタリア軍に対して数の上で遙かに劣勢であった。しかし第7Hussarsはイタリア軍縦隊の最後尾を見つけ、彼らの背後に誰もいずにその中へ入っていき、その間その対極には左に今7両(RHQからの2両を含む)を持った第2RTRが、20両以上の戦車部隊(さらに遠方には他に30両がいて、砲兵の支援も受けていた)と向かい合っていた。中央で第1RTRは北西の方向に約20両のイタリア軍戦車を追撃しており、残りの第3Hussarsの3両もまた、北西に向かって退却していく敵と接触するために移動していた。 日が落ちたため、第4機甲旅団は第1RTRに付き添われてベダ・フォムの南北のleaguerに退却した。第1RTRからの戦車を含めて、この時第4機甲旅団には39両のノーダメージの戦車と、48両の撃たれたもの、また8両は撃破され、1両は燃えてしまい、他に8両が動けなかったがその理由は分からない − があった。総計101両である。北の支援グループはイタリア軍の側面と後面に攻撃をかけるためGheminesに向かって押し進んでいた。 21:00頃、そのイタリア軍は戦車によって支援された3つの縦隊でそのライフルマンを攻撃した。小さな地雷原を回避した後、彼らはライフル旅団の戦線に入り込み、主に彼らに割り当てられ得るサポートが限られていた対戦車砲の損失によって。しかしその戦線は持ちこたえ、500人の捕虜を取り押さえ、22:00頃には第106RHAから2門の大砲が防御を支えるために到着した。もっと多くの地雷が埋められており、次の攻撃が始まる時には(イタリア軍の?)先頭の車両は爆発し、また150人の捕虜が得られた。深夜には1つの縦隊が道路封鎖の真ん中を横切ろうとしたが粉砕され、4:00には第7(Hussars?)で2両のM13がライフル旅団からの2人だけによって捕獲された。戦場の至る所に撃破され、置き去りにされ放棄された戦車や、燃え尽きた装甲車があり、多くのイタリア軍兵士達が降伏しようとしてうろついていた。」 @による描写。 「 2月6日は非常にwetで風の強い日で、戦車兵と歩兵の両方が、野営と塹壕に身を寄せ合っていた、残りは拒否されそれで彼らは希望を持てなかった?。しかしながらイギリス軍にとっては、彼らが持っているもののイニシアティブにかかっているこの切断と猛攻の戦いに勝つと勇気づける見込みが現れた。イタリア軍にとっては − 特にTelleraとBergonzoliにとっては − 彼らの退却路がもう一度開ける前に解決される(べき?)非常に扱いにくい問題があった。 5日にBarceがオーストラリア部隊によって陥落し、大量のイタリア軍弾薬軍需品集積所の火の玉と煙がはねる爆発と共に、先導パトロールが着いてすぐに爆発した。このことはTelleraを喜ばせたが、しかしBarceからベンガジへのオーストラリア部隊の前進の続行は、彼を取り乱させ、いくつかのBabiniのarmourを北に後衛として置いておくようにさせた。それ故Bergonzoli(彼の極めて重要な使命はAgedabiaへの突破だった)の全イタリア戦車が取り上げられた? それだけがBarceからベンガジの線へ閉じ込められたイタリア第10軍のしっぽへの脅威ではなかった。第7機甲旅団と共に第7機甲師団のグループと、その唯一の残っていた戦車大隊(第1RTR)はSceleidimaの門にあり、Bignami大佐の下の守備隊に強い圧力を加えており、逃げている隊列の最北端に脅威を与え、主力から30の戦車が追加で分布して原因となっていた。それゆえ、たとえBergonzoliが一つの仕事を完遂させたとしても − いかなる代価を払ってもベダ・フォムのイギリス軍を押しのけ − 彼に抑制のないサポートが与えられることもなければ、彼が取り乱さず行動するだろうということもなかった。ベンガジの東からベダ・フォムの北の新しい集中ポイントへ彼のarmourのウェイトがシフトされる方向へ夜の長さが取られ、まさにそれが到着した時、それはその位置がほとんど完全に分からない敵に対する攻撃の時に単体の砲兵と歩兵グループによる協調程度に過ぎない助力が期待できるだけだった。もう一度、過去にしばしばそうだったように、イタリア軍の偵察はなしで観察された(偵察なしでだった)。そのため、Bergonzoliは不十分な情報に基づいて狭い戦術プランを採用することを余儀なくされた。砂漠の東を通り抜けて彼の戦車部隊で短くフックして道路沿いを離れず進み、表面上はCombeforceの側面に向かっていた。その側面移動は道路で分岐して道路の、ちょうどモスクの西のピンプルと呼ばれる小さな突起の近くの砂漠へ入った。それは疑いもなく重要でない場所で、なぜなら前夜補給のため第4機甲旅団の局所的な東への退却がBergonzoliを誤解させ以下と思い込ませた。イギリス戦車部隊は道路を封鎖するためにダイレクトサポートに集中するのだろうと。いずれにしても、イタリア軍の最初の戦車は0830時のちょっと前に注意不足のまま前進した、まったく砲兵のサポートなしで、東への最初の尾根を越えて何があるかにまったく気づくこともなく。 Caunterの第6への命令は軽戦車による急速な側面攻撃に全注意を傾けるというもので、巡航戦車の手中を去って敵戦車の破壊を伴って、それぞれの作戦は野砲のサポートを受けていた。彼の戦車戦力は旅団司令部の2台の巡航戦車と3台の軽戦車、第3Hussarの7台の巡航戦車と6台の軽戦車、第7Hussarの1台の巡航戦車と29台の軽戦車、そして第2RTRの7台の軽戦車であった。はるか北では?第1RTRが 10台の巡航戦車と8台の軽戦車を集めることができていたが、Creaghは、師団司令部で、第7機甲旅団の指揮下でそれらを維持し続けることを主張していた、なぜなら、それらは彼の最後の機甲予備だったのであり、それらがいっぺんに失われてしまうといけないから、Caunterにそれらをあえて解放しないと感じていたのだ。しかしもし − Caunterが信じていたように − 実際にこの決定的なポイントはベダ・フォムで、Creaghは必要以上に複雑化したコミュニケーションネットワークを作るのと同じくらい、部隊の最大限の集中を薄くし、第1RTRはベダ・フォムに近づき、Caunterはその場にいて、通信装置で直接彼らに話すことができなくなって、それで戦いの中に入っていって統合した。 その間にその支援グループ(実質的には第1king's Royal Rifle Corpsの歩兵だけと、Gott旅団長の指揮下のわずかな大砲だけ)はSceilidimaでのBignamiからのやっかいな抵抗に会い、戦車と大砲からの重砲に対する地雷原の突破から邪魔されていた。しかし少なくともこのイギリス軍部隊はそれがどこにいて、どんな仕事かを理解していた。第7機甲旅団と第1RTRに関する状況からそれは遠く離れていた。彼らはSceleidimaからAntelatで予備と成るよう命令されていて、しかし第1RTRはその戦闘日誌には、6日の朝に途方もない砂嵐の中で旅団ともコンタクトできず、自分たちの位置も分からなかった、と率直に認めている。そのため、そのAntelatへの到着は遅れ、そして第4機甲旅団はCombeforceと共に実質的に助けを受けずに主戦闘から去った。どんな種類の空軍の支援も、新しい戦場への距離が越えてはるか離れてしまってからは期待できなかった。本当に、もしイタリア空軍が能力を持っていてレンジ外の西へ退却してしまっていなかったら、重大な影響があったかもしれなかった。今回に関しては、わずかな四散したあまり影響のない種類の影響しかなかった。それでこの極めて重大な戦いはほとんどまったく飛行機の姿を見ること無しに戦われたのだった。 6日の夜明け、パトロールはCaunterに、北へ何マイルにもわたって広がっている大量のイタリア軍隊列について報告した。その巨大さを見た目から判断するに、敵司令官の取り乱しも最高になっている?、彼は第7Hussarに北西へ向かい隊列の最後尾を探してきて、その長さにいやがらせをするように命令した。彼はまた第3Hussarにベダ・フォムの北4マイル中央の敵に対して襲撃をするように命じたが、その旅団の右後方近くに軽戦車?中隊が離れるため右側面にいた状態のため、その右側面には第7機甲旅団が静かにいた、Sceleidimaの方向は定かでなかった。そのため、第7機甲旅団は失い、すでに直接的寄与させることから妨げられ、今やCaunterの小さな部隊の小さな陽動作戦を引き起こすことを妨げていた。このことが第2RTRが単独でイタリア軍主力戦車(戦車60台以上の強さ)の攻撃との交戦をそのままにしていた。それでそれはピンプルへ向かって、0830時に移動した。 第2RTRにとって幸運なことに、一斉に到着することもなく、その理由はすでに与えたが、適切な支援を得て前進してくることもなかった。ピンプルへ這い進んできたイタリア第10軍のM13の第一波のクルー達にとって驚くべき事に、彼らは突然敵の巡航戦車の砲塔を見破って、彼らの前へ600ヤードの頂を突破して それぞれの2ポンド砲が荒れそうな空模様を指し示しイギリス軍の砲手達が良い狙いをできるように、それぞれが耳をつんざくような轟音で後ずさりながら反撃し、銃を撃ち、猛スピードでターゲットを追いかけた。瞬く間にM13達は射撃をやめようとし、あるいは回避のためにターンを試みようとした、退却しようとしたが戦車の走行を貫通して無駄に死を迎えた、そのクルー達を殺し、重傷を負わせた。いくつかのM13はすぐに燃えさかる棺と化し、8台が即座に破壊された。次に、報復として単打がされる可能性の前に、そのイギリス軍部隊は坂道を下って視界外へ逆向きに走った。モスクの稜線へ全速力で帰るために向きを変えて、北から彼らの破滅に向かって重苦しく転がるような足取りで向かってくるM13の第2グループに対してハルダウンシューティングの練習の同一目標を繰り返した。ここで7台以上のM13が沈黙状態に陥った、しかし今や、ついに、イタリア軍砲兵が本領を発揮(目覚める、活動的になる)しはじめ、その前進観測者はかのモスクに道路のそばに占めていたポジションの大砲からの弾丸で大打撃を与えるために狙っていた。 全ては今や全戦車の移動が割かれた、Bergonzoliへ着実に近づくために、、イタリア軍砲兵の砲火が増大する間にピンプルとモスクへ。第2RTRの残余 − C中隊とその遅いA9とA10巡航戦車 − はA中隊(そのA13達は、敵の最初の重損害となっていたところだった)をサポートするために到着した。その間に第4RHAのFバッテリーのOCはトラックの中で見た、第2RTRのCOに属する戦車がそばにいる、一人の報告を引用する、「彼の良い口ひげの南半分はこの天気で完全に沈滞しており、北半分はいつも通りの角度だった」、大量のターゲットに対する彼の25ポンド砲の直接射撃は、それぞれ爆発し、ついでに言えば、舞い上がった埃のスクリーンが第2RTRの複雑な作戦行動を隠した。このポイントでは、また戦闘の多くにとって、まだ第2RTRによる戦闘指揮は確かに以下のように見えていた、RHQのコールよりは2つの騎兵大隊の指揮官の間の相互の号位置によるのだと。たとえば、A騎兵大隊がモスクで重戦闘に入ると、C騎兵大隊指揮官はピンプルに対する攻撃を提案したし、単に彼のCOによってそうしろと許可を得るだけだった。 通信によるコントロールは今やその価値を証明した、その行動は海軍式の交戦をシミュレートしている。C騎兵大隊の指揮官の、彼の戦車達に対する命令は、訓練移動を始めるために空を震わせた、その訓練移動はイングランドのSalisbury Plainで10年の間の平和時のトレーニングで目標に向かって発射された「Hello、全ての部署。前進隊形を組み、私の動きに従え」 − その指揮官は同時に彼のドライバーにピンプルを側面包囲するために北へターンするよう命じた。次に、「Hello、全ての部署。戦車は離れ、ピンプルを攻撃する」そして7台の巡航戦車が平行に動くために90度を超えてターンした、イタリア戦車を側面にキャッチした、同時にA騎兵大隊がモスクからサポートし、彼らの間で8台以上のM13をノックアウトした。イタリア軍戦車指揮官はこの効率にまったく匹敵できなかった。彼らには通信機器が欠けており、彼らはそれぞれの予定されたそこにある目標に向かって無反応に移動した、必然的に、正式な口頭の命令の集まりに出席するために戦車から降りてより多くの指示を待つことになった。彼らは彼らの敵のようなスピードと柔軟性で非常事態に対応することなどまったくできなかった。そのため彼らはぞっとするような運命と戦ったのだ、しかし毎回のように繰り返される混乱の中で − 代価を払って。まだ、隊列のトラックのためにこれらイタリア軍の犠牲が達した目標のいくつかの範囲は、今やピンプルを越えて南へ移動することが自由だった。ただし何かがなされた場合を除く、Combeforceはすぐにその影響を感じるだろう。すぐにA騎兵大隊の巡航戦車は追撃のために外れ、南へ延びる道路の長さに轟音を立てて進み、タレットを真横にスイングさせ、いくつかが燃えてしまっていたトラックに対して機銃掃射した。トラックは、多くは放棄され、他のものは砂の丘の中へと離れていっていた。350人の捕虜が、駆逐艦の様に通り過ぎていくC中隊からの軽戦車の出撃によってかき集められ、巡航戦車の砲によって守られた下で、その間第4RHAの25ポンド砲は、戦艦の様に、地平線を威圧していた。 北の方に急に高まった戦いの間その長く止まった位置からほとんど傍観者の様に行動していたCombeforceに対するこれはすべてが偉大な励ましだった。南への道を進んでいた敗残兵を拾い上げていたので。C中隊は協力攻撃の様なすごく小さい部分に見える何かを破壊した。それで、Combeの主要な問題は昼までに、終わりなく続くかのように見える捕虜の流れの収容場所という事に変化した。事実上、それで緩慢さは深刻な問題だった。第2RBの司令部中隊の指揮官はそれは正しく正当なことだと考えた、将校用の白い乱雑なテントを予備中隊の後方数百ヤードのところに立てることを。それはイタリア軍の砲兵にとって有用な狙い用マーカーを提供し、もし将校用の栄養があれば少し。 北の最も遠く、オーストラリア部隊がベンガジに対して圧力を加え、支援グループがSceleidimaの支配をしっかり握っている、イタリア軍はその支配を緩め始めた。1000時にBignamiはSceleidimaから避難する様に言われ、彼の戦車をピンプルの戦いへ供給し助けるために送った。同時刻に、彼らの後方隊列を探していた第7Hussarを近づけないようにしていた。後者は視界が悪く、1030時に敵後衛を見つけることを期待して、ベダ・フォムの真西の道路を横切った、しかし彼らがそうするやいなや、まだ大量のイタリア軍部隊が北から近づいてくるのが見えた、それらはかつて第11Hussarに属していた捕獲した装甲車に先導されていた。この装甲車は第7Hussarの戦車に激突され、その乗組員は死んだ。しかしこの新しい敵のM13の中のクルーは非常に強かったので、Hussarは退却するよりほかなかった。本当に、レポートの趣意はこのようなもので、第4機甲旅団と第7機甲師団司令部の来着は、1100時までに、元の60のイタリア軍戦車の集団という見積もりが大いに間違いだったということが明らかになってきた。すでにイギリス軍はその数程度を破壊し、まだもっと多くが到着してきていた。その上、第2RTRの巡航戦車は弾薬を使い果たし、補充のローテーションのために退却しなければならなかった。大量の補給を積んだトラックの前で解放された連隊司令部から望ましからざる期間の実際のいくつかの移し替えは前へ輸送された。 それ故、正午が近づくにつれ、第1RTRによる介入が必要になった。まだ今、その場所はようやくAntelatの近辺のどこかだと曖昧に知られた、それは補給がされている間により遅延していると分かったのだった。おそらくナポレオンはワーテルローで、グルーシーをカウンターとして同じように感じていただろう、ベダ・フォムでは、第1RTRに関してそうだった。しかしその間にどんどん先細りになっていく第4機甲旅団はそこを押さえているのが精一杯で、尾根から尾根へと防御地点を変えていき、ピンプルとモスクの支配を弱々しく維持し、機会が来たときにはいつでも、道路上に積み重なっている集団の隊列に襲撃し、そしてしばしばまだどこからかやってくるM13へ北へ不安な目をやりながら、まったくすぐに、Combeforceはその最も偉大なテストすべてに身をさらすことになった。道路へ運搬するのを妨げられたそれらのイタリア軍はすでに海の近くの砂丘を越えて浸透したため、第4RHAの砲撃と、軽戦車の襲撃から逃れることに成功した。 1125時、第2RTRはまだ13台の行動に適した巡航戦車を持っていたが、35分後にはそれらはその道路上での全面的な白兵戦に巻き込まれて、補助照準具が越えるほどイタリア軍砲兵の砲火に接近して、多くの時間に彼らのうちの3台を失った?。 この時頃、第7Hussarもまた、ただ一つ残っていた巡航戦車が停止していたイタリア軍集団の2000ヤード以内で一台のトラックを破壊した、そして25分の身の毛のよだつような時間で、クルー達がそれを修理するために汗をかいている間、応酬を引き起こすといけないので作戦のため、部隊の25ポンド砲はあえて発砲せずに黙って立っていた。しかし彼らの敵は予想外のことにそれを傍観していた。この日の戦車 − 特に種々の巡航戦車 − は、値段が付けられないほど貴重なものだった。しかし切り立った純然たる勇気が、イギリス軍に時の流れを作り出したのだ。 イタリア軍は、イギリス軍の抵抗が弱まっていると感じられている間に急いで昼食をとり、彼らの努力を繰り返した。ベルゴンツォーリが北からやってきた後衛部隊に協力された時、彼の戦車と砲兵はこの場所にかつてなかったほど集中され、ピンプルへのイタリア軍のグリップ(支配)は厳しくなり、それで南への回廊は確保され開き始めた。彼らの気持ちは今や一つの狙いに集中していた − 突破すること、まっすぐに進むこと、そして彼らの側面を無視するという傾向が助長されることによって彼らの戦術の影響が大きくなっている間に、第4機甲旅団による側面攻撃は促されることになった。 1500時までに危機的状態に到達した。第7Hussarはついにイタリア軍のしっぽを見つけ、それを攻撃し始めた。第3Hussarはベダ・フォムの北東への大量のイタリア軍戦車から大きな圧力を加えられていたが、命令された。「しっかり立て、そして敵と会ったらいつでも攻撃しろ」。第2RTRは、ピンプルをもう一度撃退し、重砲火にさらされていて、その道路の西へ働き回ろうとしていたが、最終的に撃退されてしまった。そこでは一時的にRHAと通信不能になった、機甲の通信(機?)を失い、もはや敵に対して直接砲火をできなくなってしまったのだ。一時間以内にこれは修理され、ピンプルは激しい砲火にさらされ、そしてその時までには第1RTRが東から到着し始め、通信士官からの彼らのCOによるいくつかの不可避的な曖昧な方向によると彼らの前進路は感じられ、車の中で第4機甲旅団司令部に到着し、それは無実の通信セットで、それゆえ建設的な命令を送ることができなかった。最中に、第1RTRはより悪くなっているように見える砲の音を調査し、イタリア軍戦車部隊の部分に迫り、クリティカルな瞬間に彼らを北西に追いやり、しかし最初からずっと彼らは気がつくと非常に抑制された、そのローカルコンディションを無視することによって、そして敵からではなく味方の砲火の恐怖を。 暗くなり始めたので、戦いは新しいターンに入った。ベルゴンツォーリは一日中続けた東へ向かって砂漠を横切るという意図を諦めた。代わりに彼は遅ればせながら最も無難な方法をとり、彼はわずかな生き残った戦車と砲でその道の西へ砂丘を越えて彼らを浸透しようと試みた。その上彼は良い瞬間を選び、まさにその時に、第2RTRは必要からその圧力を弱めていた、というのはその日の2回目に、弾薬を補給する必要があったのだ。1800時ちょっと前に第2RTRは敵をホールドするためにできることは何もない、そして主要な隊列はRHAによる砲撃にも関わらずその道路を下がっていっていると報告してきた。すべてのCaunterが今できることは、夜に備えて南にいるCombeの近くに配置し、イタリア軍彼らの残っている30台の戦車でその最後の手段の位置で夜間攻撃を試みたりはしないでおいてくれると希望を持つことだった。努力を集中した行動の日の後の彼の戦車戦力はまだ本当にこの戦闘での標準に見苦しくないものだった − 15の巡航戦車と51の軽戦車が第1RTRにほとんど手つかずで存在している間。もしこれらが次の日に間に合って右の場所に向かえれば、それらは大きな貢献ができただろう。 Combeforceにとって幸運なことに、その夜はパトロールの活動以上に激しいものは何もなく過ぎた。少数のイタリア軍戦車は月夜の下を気づかれないように通り過ぎようとした、ピストル一組?(brace)は小隊の陸曹長によって袋に入れられ、第2RBのあるライフルマンは近距離で彼らのライフルをスリットを通して撃った。しかしそれらはその朝までとっておかれた主たる対立の偶発的な散兵による予兆に過ぎなかった。 6日の非常に忙しい時間の間中オコンナーは第7機甲師団司令部で彼の時間を過ごした、もしCreaghがアドバイスを求めるならそれに準備して、通信で第6オーストラリア師団のMackayにしゃべることが必要だと分かって、そして2月7日のために移動計画を立てた。それぞれの師団長には6日に彼に要求されたことは何もなかったのは、急いで達成することが熱望され彼の仕事に完全に気づいたのだった。しかし第7のためMackayはオコンナーに言われた、彼の最大限の努力で歩兵の2個大隊をトラックでベンガジを越えて運び、イタリア第10軍の退却しているしっぽを攻撃せよと、確認、事実上、Creaghによってすでに送られたアピールと似ているもの。ベンガジは6日午後に無抵抗で陥落し、第19旅団の先頭部隊はアラブ代表団からの歓迎のスピーチと共に郊外に入った、第6騎兵のキャリアーは非常に多くの群衆から通りを抜ける間に応援された。(その中には疑いもなく、最近彼ら自身で解体されたGrazianiの軍隊の者もいた) 市長、司教、警察長、および他の植民勢力から退陣させられた高官達からタウンホールで歓迎された。おそらく驚くべきだったのは、この時のオーストラリア部隊が聞いた「我らの勇敢な連合軍」と彼らが述べていたことだが、戦争では兵士達はこんな習慣を学ぶものだ。」 |
Cによる描写。 「2月7日の朝、最後の攻撃が激しく徹底的におこなわれた。イタリア軍戦車は今や、気づけば第106RHA(Lancashire Hussars)の対戦車砲との戦いに入っていた。射撃がやりとりされ、脆弱な小さい砲は一つずつ撃破されていったので、唯一生き残ったporteeを指揮して、そのbattery指揮官とその当番兵、そして料理人はそれを側面へ車で運び、5両のイタリア戦車に対して5斉射した。ライフル旅団の対戦車ライフル数門と4門のRHAの25ポンド砲だけが最後のイタリア軍戦車が将校の混乱したテントに到達する直前に撃破された時に残っていただけだった。 不気味な沈黙が急に訪れ、白旗がそこここに現れだし、縦隊に沿って相次ぐ降伏者が車輌や武器を放棄した。この知らせを聞いて、オコンナーはDorman-Smithの方を向いて言った。「我々はArchie(アーチボルト・ウェーベルのことだろう)にメッセージを送った方がいいな。何と送ろう?」 Dorman-Smithは狩猟にたとえてウェーベルにアピールした。「狐は戸外で殺した……」 このメッセージはムッソリーニの利益になるように、平文でカイロに送られた。」 Aによる描写。 「 6日と7日の間の夜はベダ・フォムの地域は静かで、夜明けには第7Hussarsは北と北西方向へのパトロールに送られ、その間第2RTRはSidi Salehでの道路封鎖のためCombeforceに協力するために南へ移動するよう命令された。しかし戦いの最終局面に参加するには到着が遅すぎた(toをtooと読み替え)。その支援グループはすぐに第7Hussarsと連絡を取った。11:00にイタリア第10軍参謀長のVirginio将軍は軍参謀と共に第4機甲旅団の司令部に到着した。 これに先立ち、南方のSidi Saleh近くの道路封鎖で、第2ライフル旅団のその大隊司令部が6:30に激しい砲撃を受け、その後すぐに戦車と砲兵を伴った大規模な2つの縦隊の攻撃を受けた。道路上のその縦隊はなんとかして、狙い澄ました砲兵射撃によってストップさせられてしまう前にその予備company地域を貫通しようとして、撃退される前に1両の戦車がその大隊の司令部に到着した。歩兵を運んでいたトラックは重小火器によってすぐに停止させられ、乗っていた者たちは降伏し始めた。攻撃は停止し、白旗がイタリア軍縦隊のすべての場所で現れ始めた。 イタリア軍のTellera将軍は負傷して後に亡くなり、それからBignani将軍、Negroni将軍、Bardini将軍、Giuliano将軍らが数多くの准将や中佐たちとともにみんな捕虜となり、今まで巧みに長い間英軍から逃げ回っていたBergonzoli将軍も捕虜となった。Bergonzoli将軍が捕虜になるとともに、戦いは終わり、イタリア第10軍は存在することを辞めた。総計25000以上の捕虜、100両の戦車、216の大砲、そして1500両以上の車両が捕獲された。その後3日間で、英軍は捕虜を一網打尽に捕らえ、輸送車両を捕獲し、その多くは戦いを避けようとして柔らかい砂にはまり込んで動けなくなったものだった。そこかしこにワイン、チョコレート、ブリキ缶のフルーツ缶や他にももっと多くのものがあった。すべての師団は着るための綺麗なイタリアンシャツを持ち、将校はみな運転する車を見つけ、多くの兵士達はオートバイを自分のものにした。整備工のための道具もまた略奪され、軍医たちは非常に高い水準の医療器具を見つけた。 ベダ・フォムでイタリア軍が降伏した時点で、オコンナー将軍は支援グループを西方へ送った。第11HussarsのC SquadronはAgadabiaとEl Agheilaの兵舎を占領した。Benghaziは2月9日に陥落し、降伏はBarce、El Abiar、Regima、Benina空港を取ったオーストラリア部隊によって取られた。それまでにトブルク港は開港され、ベンガジ港もそうなるはずで、補給問題の助けになるはずであったが、第7機甲師団の残りはどんなに数えても12両のA13巡航戦車と40両のマークY軽戦車にまで減っていた。そのため、第7機甲師団は部隊の前衛をKDGに守られながら第11Hussarsと共にエジプトに再装備のために退却することが決められ、第2機甲師団が第7機甲師団に置き換えられた。」 @による描写。 「 7日の夜明けが近づくにつれ、Combeforceによる一列の集中した一般の行進が来た。支援グループはオーストラリア部隊より前にいて、イタリア軍の尻尾に噛みつき、第2RTRは西の道路に向かって南の海岸に沿って移動し、その間第1RTRはCombeの側面のサポートのため東に配置されていた。そしてベルゴンツォーリが最後の脱出の希望のために集めることができたたった30台の戦車は、夜明けの機会にCombeforceを破壊することだった、彼の側面を攻撃する前に、そして後衛が延びることができ、はじめて、数で圧倒して彼を恐怖させた。 そのイタリア軍の攻撃は、本拠地を良く押し、そして撃つために充分に明るくなるや否や砲兵の火力によって重度にサポートされていた、彼らが動き、彼らの存在が明らかになるやいなや第106RHAの37mm砲のほとんどが集中された。第2RBは土地の下に居たに過ぎない、イタリア軍戦車クルーが死にものぐるいの勇気を奮った攻撃で圧力を加える、無慈悲に先頭の中隊の土地に向かって衝突する、そして対戦車砲と損害を交換する。一瞬で第4RHAのC中隊の指揮官は許可を得て、RBの位置のトップに圧迫を与えるために砲火を浴びせた。(ベダ・フォムでの交戦全体で、しかしながら、第2RBの損害は3人戦死、4人負傷にすぎなかった) イタリア軍戦車はまだ、数はだいぶ減っていたが、対戦車砲1つを除いてすべてノックアウトして予備中隊の場所に圧力を加えた。その一つの砲というのは第106RHAのもので、しかしながら、重要な決断の役割を果たした。砲兵中隊長によって有人となり、彼の当番兵と料理人とで、それは側面へ車で行き、彼らはRBの白い乱雑なテントに近づくと敵先頭の戦車に対して痛烈な射撃を開いた。それは残り5発だったが、それで5台のイタリア軍戦車をノックアウトした − しかし戦闘でのスコアというのは伝説へと翻訳されて「修正」されるものだ。目標として破壊された最後のM13が何台だったとしても、一台のM13はテントの20ヤード以内へ近づき、イギリス軍歩兵はイタリア軍歩兵によって持ち場から動けなくされ、介入を妨げられた、そのイタリア軍歩兵たちは戦車の攻撃の後に付き従っていて、ベルゴンツォーリにはもう何も残っていなかった。彼の大砲は、最後まで良く奉仕し、できなかった、自力で、土地を取ることは。ともかく、側面と後方から近づいてくるイギリス軍戦車の轟音は恐ろしいほどの騒がしさになっていた。イタリア第10軍にとっての戦闘は終わったのだ。イギリス軍兵士たちにとっては、今や通り過ぎるすべての砂漠で白い旗が振られるのを発見した、そしてベルゴンツォーリは威厳を付けて降伏を申し出た。 25000名以上の捕虜、100以上の戦車(多くがまだ使える状態だった)、216の大砲、1500の車輪の車にフィールドを見晴らすのを邪魔されながら、オコンナーがこの記憶されるべき朝に発した最後の言葉はこうだった。「私は今までめったに、こんな残骸と混乱がメインベンガジ道路に存在するのを見たことがない。破壊され、転倒したトラック。ところどころには大砲が、トラックと戦車は絶望的に混乱している。他の場所では大砲がまだ撃っており、M13が破壊されている。見渡す限りの場所に捕虜が大量にいる。ほとんどの敵戦車の中には人が死んでいる……軍司令官のTellera将軍はその中の一人として重傷を負って倒れており、彼はその日遅くに亡くなった。」 そしてグラツィアーニは、西へ逃げるのを無気力のまま待ち、それが解決の日だった、聞き取れない一度注いだ通信メッセージと、6日の間の早い向こうまで、7日の午前中頃までに、聞くものはなにもなかった。「私は思う」オコンナーは書いている。「これは敵の誰も逃げられなかった完璧な勝利と言うべきかもしれない。」 イギリス軍の勝利は完璧以上のものだった、というのは、それが経済的なものだったからだ。500名の戦死、55名の行方不明、1373名の負傷者で、彼らは2ヶ月で500マイルを進み、10個師団を壊滅させ、130000名以上の捕虜を得て、180両の中戦車、200以上の軽戦車、845の大砲を得た。イタリア軍はさらし者となり、まださらにドイツ軍の慈善にすがらなければならなかった。エジプトへの脅威は軍隊を解散して取り除かれ、イギリス軍の望み通りに、……(以下略)」 |