シナリオチェック馬騰


『英雄三国志』登場シナリオチェック表:馬騰

     年   189 189 194 196 199 200 202 208 210 214 217 220 223 228 234 239
 シナリオ  1a 1b  2a  2b  2c  3a  3b  4a  4b  5a  5b  6 7 8 9 10

 馬騰    ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ▲ ▲
                     + +(曹操配下)
 馬超        ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
                         ○ ○ ○(劉備配下)
 馬岱        ▲ ▲ ▲ ▲ ○ ○ ○
                   (劉備配下)○ ○ ○ ○ ○ +

 程銀    ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
 楊秋      ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
                         + + +(曹操配下)

 侯成(誤)     ▲ ▲ ▲
 侯選(正)     + + + ○ ○ ○ ○
                         + +(曹操配下)
 韓遂    ○ ○ ○(独立勢力)       +
             ○ ○ ○ ○ ○ ○


 [厂+龍]悳      + +  ○ ○ ○ ○ ○
                         +(張魯配下)
                         ▲ ○(曹操配下)

 成宜              ○ ○ ○ ○


 ★馬騰

 馬超伝裴松之注他によれば、馬騰は208年に衛尉として曹操に召しだされて、涼州は
馬超に任せる状態となった。故に、208年からは馬騰は曹操配下とすべきだろう。のち
に馬超が反乱を起こすも曹操に敗れ、馬騰も連座して212年に殺された。よって、210年
シナリオが最後になるのは正しい。


 ★馬超

 馬超の業績が記され始めるのは、202年頃の曹操の対袁譚戦に参加している時からで
ある。しかし、馬超は生年が176年とわかっている。194年には彼は18歳である。18歳で
あれば、登場してもおかしいとは言えないだろう。よって、194年登場でよいと思われる。
 馬超は211年に曹操に敗れ、214年当時には張魯の元に身を寄せている。しかし、214
年中に劉備のもとへ走っており、馬超が劉備軍に参加したと聞いて劉璋は降伏したとい
う。もともとゲームでの指定も214年シナリオでは馬超は劉備配下であり、劉備配下と
すべきであろう。
 馬超の死は222年である。


 ★馬岱

 馬岱は正史三国志に2カ所しか記述がなく、222年の馬超の遺言に初めて名前が出て
くる。しかし演義では、馬騰が曹操のもとに行く時にそれを諫めたとして初登場するた
め、登場はその前、202年シナリオが妥当であろう。
 214年は、馬岱は馬超と行動を共にしているので、馬超に準じる。
 退場時期だが、正史では234年、魏延を斬り殺したのが最後であるが、『晋書』宣帝
紀には235年に馬岱が魏に侵攻したとある。よって、234年シナリオが最後だろう。


 ★[厂+龍]悳

 [厂+龍]悳が馬騰の配下として働き始めたのは、正史によると初平年間(190年〜194
年)である。故に194年シナリオには[厂+龍]悳は登場すべきである。
 214年当時には張魯に身を寄せている。214年中に劉備に降った馬超らと違い、[厂+龍]
悳は215年に曹操に降っているので、214年時点では必ず張魯の元にいた事になる。
 [厂+龍]悳は219年、樊城の戦いの最中、関羽に捕らえられ殺された。よって、217年
シナリオが最後で正しい。


 ★韓遂

 韓遂は早くから自立し、反乱などもしている。馬騰と韓遂はほとんど場合抗争してい
た様で、馬超伝によれば「(馬騰と韓遂は)義兄弟となった。最初はきわめて親しくし
ていたが、のちに一転して配下の兵をもってたがいに侵入しあい、仇敵の間柄に変じた。
馬騰が韓遂を攻撃したところ、韓遂は敗走したが、軍勢を糾合して立ちもどり馬騰を攻
撃し、馬騰の妻子を殺したため、戦闘がいつまでも継続することとなった。」とある。
195年、鍾ヨウらによって和解させられたらしいが、董卓伝によれば「(192年、二人が
長安に来たあと)馬騰と韓遂は涼州に帰ってから、互いに侵攻しあった」、鍾ヨウ伝に
よれば「(202年より前?)馬騰・韓遂らは、それぞれ強力な軍隊をかかえて互いに抗
争していた」とある。
 しかし、202年、曹操が対袁譚戦を行っている時、鍾ヨウの説得によって両者は協同
して曹操に兵を提供している。この時、馬超は韓遂の兵をも指揮したという。この事か
ら考えれば、この時点では同一勢力とみなすべきなのかもしれない。だがその後も馬騰
・馬超とは基本的に独立した存在であり、211年に曹操と戦った時も、むしろ馬超は韓
遂を戴いている様な記述さえある。
 だが、程銀、侯選、成宜、楊秋などの諸将が演義では韓遂配下にあり(正史では同盟
者であるが)、また正史で見ても馬騰/馬超配下に有力な武将は[厂+龍]悳以外一人も
見あたらないことを考えると、馬騰/馬超と韓遂を別々の勢力にしておくことはゲーム
の処理上難しいといえよう。だとすれば、とりあえず194年までは別勢力だとしても、
それ以降は同一勢力とさせる事もやむを得まい。
 韓遂は214年当時、馬超らと別れて独立勢力として金城(ゲームマップでは天水群)
にいた。曹操の領土扱いとなっている天水群を、韓遂の領地とすべきであろう。215年
韓遂は病死した(王脩伝による)あとその地方の将軍に首を斬られ、曹操の元に送られ
た。


 ★程銀、侯選

 程銀と侯選は211年当時の馬超・韓遂らの同盟者であるらしい(部下とは言えない)。
211年の敗走のあと、二人は張魯に身を寄せ、その後曹操に帰順して、もとどおりの官
爵を与えられたと、張魯伝にある。
 だが、演義では程銀、侯選はともに韓遂配下の武将であり、211年、程銀は戦死、侯
選は楊秋と共に曹操に帰順した、とある。
 ゲーム上では、もともとの指定の登場時期を尊重するのが無難だろう。退場について
は、程銀は戦死でよい。侯選は曹操配下となるべきか。退場時期としては、楊秋より早
い程度が無難か。


 ★成宜

 211年当時の馬超・韓遂らの同盟者のうちの一人。211年に戦死。
 演義では韓遂配下の将で、211年夏侯淵に斬り殺された事になっている。


 ★楊秋

 211年当時の馬超・韓遂らの同盟者のうちの一人。韓遂・馬超らが涼州に逃げた時、
楊秋は長安の北西にある安定(臨ケイ。隴関の北北西。ゲームマップ上では北地群の
中か)へ逃げた。211年冬10月に楊秋は曹操軍に包囲され降伏し、元通りの爵位を与え
られ、その地に留まってその住民を鎮撫したという。その後黄初年間(220年〜226年)
に討寇将軍などに任じられ、寿命を終えた。
 演義では韓遂配下の将で、曹操への使者を勤めたことになっている。馬超の敗走後、
侯選とともに曹操に帰順したという。


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